九蓮宝燈への道

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プロローグ

 私は地球上のあらゆる生物のうちの人間という種類、男で日本人であるという分類の中の多数の構成要素の一つにすぎないのであるが、時間も含めた全宇宙のすべての現象をこの私の体を通してしか、感じ取ることができない。このことは単なる偶然ではなく、私は全人類の中で特に意味があってこの肉体、精神そしてその後の人生を必然的に与えられたものと考えている。その意味では、私は神に(いるとするならば)特に選ばれた人間であるといえる。何のために私を選んだのかは未だ私にはわかっていないのであるが。

本編
 昭和46年9月、私は大学2年生であった。教養部の学期末試験がおわり、心地よい疲労感と開放感から足取りも軽く、仲間3人といつもの麻雀荘にむかった。大学2年になって初めて覚えた麻雀だったが、雀力が日に日に上がっていくのを実感していた。符計算はすぐに覚えた。高専生のやる1ファン千点の麻雀ではないことは強調しておきたい。
 雀荘はビルの二階をすべて使用した大きな部屋であった。教養部の近くには文学部などの文系の学部があり、試験後ということもあり、ほとんど満卓の状態であった。立ち親は私で、下家はH氏(現在NTTの研究所に勤務)、対面はM氏(金属学科で現在の所属は不明)、上家はW氏(現在高校の教師)であった。淡々と局が進み、とくに大きな出入りのないまま運命の東々まわしの裏の3局をむかえた。
 対面のM氏が微差ではあったがトップであり、親の連荘だけは避ける必要があるが、ラス前でもあるので手作りも要求されるという難しい局面であった。M氏が賽を振り5と6で11、私の山から取り出した。花牌は入れてないので3列目の上牌を開くと4筒であり、ドラは5筒になった。私の山から残り6列をとり、上手のW氏の山をすべてとり、対面のM氏の山にかかって配牌を終了した。私の配牌には、一萬,一萬,二萬,三萬,五萬,七萬,九萬の萬子、六草,七草の草子、一筒,七筒の筒子、北,南の字牌があった。この配牌がその後あのように変化し、その後の私の人生を大きく左右させることになるとはこの時は全く思ってもみなかった。
 第一ツモはカンチャンの六萬であった。捨て牌は南。この時点での考えは、とりあえず平和のダマテンで親を早めに落とすか、伸びれば567の平和・三色・ドラ一の満貫を想定していた。萬子の清一を考えないでもなかったが、基本技が平和主義であり、草子あるいは七筒を落とす気はこの時点ではまだなかった。
 第二ツモは九萬。打一筒。面子の数は七筒にくっつけて一つ作るつもりであるので、一筒は不要であった。北は安全牌として残す。あとで振り返ると、このとき九萬が手にはいったことは大きな意味を持っていた。このとき七筒の近辺、あるいは一筒、北などの対子をツモった場合には、九萬を切った可能性が高く、その場合には終局後に手牌と河牌を見て泣くことになり、その後は全く別の人生を歩むことになる。どちらが自分自身にとってあるいはひょっとしたら人類にとってよかったのか、いまの時点では何ともいえないが。
 第三ツモは四草ツモ切り。第四ツモは一草で、これもツモ切り。これまでの捨て牌では他家では目立った動きがなかったが、対面の親が3巡目で七草を手配の中から捨てたことをマークしていた。M氏は二浪して大学へ入ったらしく、予備校時代も(噂では中学時代から)麻雀に熱中していたという。手作りと捨て牌の迷彩、読みの鋭さ等、私のこれまでの対戦相手の中では群を抜いおり、もっとも警戒すべき人物であった。H氏とW氏にはふつうに打てば負けるはずがないと思っていた。これまでの彼の打ち方から、この七草切りはソバテン解消のための可能性が高いと考えていい。 
 五巡目、親は六草ツモ切り。彼の表情からは全く読めない。彼の手牌の中に六草があればつもった六草を手牌の六草といれかえて出すはずであり、これをしなかったのは手牌に六草がない(したがって五・八草の待ちはない)と単純には読めるが、彼のこれまでの癖からするとこの裏をかいてわざと六草をツモ切りした可能性が高いと私は読んでいた。上家と下家の力ではそこまで読めないから、五・八草の待ちは私にとっても彼にとってもあがれる確率が高い。また、この六草切りによって、私の手配の六・七草がマークしている親の安全牌になり、打ち回しがしやすくなった。私のツモは一萬。萬子の一気通貫の可能性があり、三色の可能性も残すために、北を切る。この時点では親の手がおそらくもっとも早いと思われるので、彼だけの安牌として六・七草を用意しておけばいいと考えていた。
 六巡目、親は西を手牌のなかから切ってきた。彼は安全牌を二枚持つ癖があり(彼の後ろで見学したときに気付いていた)、イーシャンテンになったもようである。かなり危険な状態だ。これでもう一枚の安全牌がでて、その上、眼鏡の真ん中を右手の人差し指で押さえたら(私だけが知っている唯一の癖)間違いなくテンパイである。私は南をツモ切り。
 七巡目、親は三筒を手牌から出す。三筒の単なる入れ替えか、カンチャンからリャンメンへの切り替えか、いずれにしても私の七筒は極めて危険な牌になってしまった。決断の時が近づいている。私のツモはなんと八萬!もう三色をねらうことはできない。ピンフ一通で五八草待ちをねらう。七筒切り。意識してかなり強く牌を切る。他家に親の危険牌だと意識させ、親の和了をさけさせるためである。親は全く無表情であった。
 八巡目、親は北をツモ切り。私は三草をツモ切り。場には極めて萬子は少なく、親もかなりこちらを意識している。萬子の待ちの上がりは極めて難しく、私は、まだ清一への意識は少なく五八草待ちにこだわっていた。
 九巡目、親は三萬をツモ切り。こちらをかなり意識した動作であり、萬子を他家にも警戒させる意図である。他家はあまり手が進んでないようである。私は九草をツモ切り。
 十巡目、親は中をツモ切り。二枚目であるが誰も鳴かない。親は間違いなくイーシャンテンであろう。私のツモは七草であるが、手牌の七草と入れ替えるわけにはいかない。そのまま何気なくツモ切り。彼の手牌に七草があるとすると、残り一枚しか七草はなく、八草は浮きやすい牌である。ただ、場には一枚もでておらず、上家か下家に暗刻か対子でもたれているのかもしれない。
 十一巡目、親は南を手牌のなかから切った。ツモ牌と手牌を瞬間に入れ替えたのをはっきり確認した。リーチはかからない。しかし、彼の右手がおもむろに動き、人差し指で眼鏡の真ん中をおした。間違いなくテンパイである。私のツモは安全な三筒であった。ここで、五・八草を引いたらどうするべきか、浮いている九萬は通るのだろうか。悩ましい。いや、それよりも萬子がきたら、清一にいくのか。六七草は安全牌であるが。悩ましい。しかし、いくら迷っても、そんなものはおおきな流れのなかでは、選択の余地がない場合がある。偶然の連続のなかから生まれていく必然の運命。その中ではすべてが無力なのかもしれない。
 十二巡目、親は九草をツモ切り。手が変わるのを待っているのか、とりあえずダマテンであがりたいのか。そして、そして、私のツモは四萬・・・・・・・・。九萬を切れば、平和一通でテンパイである。しかし、あがっても3900であり、九萬切りのリスクはない。そして、なによりも清一のイーシャンテンである。七草を切る。親は意外そうな顔をしている。こちらを完全な萬子の清一と思っており、でるなら字牌であると考えていたに違いない。他家は私が手牌の中から七草を切ったことを、それほど注視していない。待ちを読み始める。このとき私の手牌は、一、一、一、二、三、四、五、六、七、八、九、九萬それに六草である。この時点でも、まだ私はことの重大さに全く気付いていなかった。一萬をツモれば三六九萬待ち、二萬をツモれば二九萬待ち、三萬ツモで一四九萬待ち。
 十三巡目、親は九草をツモ切りし、リーチを宣言。他家に緊張が走る。手がかわらないからか、他家の足止めか、いや、明らかに私への牽制であろう。手牌に八草があると読んだのかもしれない。私の読みは続く。四萬ツモで三六九萬待ち。五萬ツモで五九萬待ち。白をツモる。親の現物ではないが、序盤で二枚切れており、七対ではなさそうなのでツモ切りする。六草は他家には危険牌になる可能性があるが、最終的に白を切ってのテンパイよりも、六草を最後に出したかった。他家も安全牌を切っている。私の読みは続く。六萬ツモで一四七九萬待ち。七萬ツモで六八九萬待ち。心臓が高鳴るのが自分でもわかる。八萬ツモで七八九萬待ち。あれ!なにがきてもテンパイしそうだぞ。九萬ツモだと・・・。ありゃ!これは!ひょっとしたら九蓮宝燈のイーシャンではないか!!!やっと気がついた。なにをツモっても九蓮宝燈のテンパイになる。しかも、しかも、もし九萬をツモれば!!!心臓が口から飛び出るかと思うほど緊張する。他家へも敏感に伝わっているようだが、それは清一程度の手だと見えているはずである。
 十四巡目、親は二筒切り。異様に重たい雰囲気が漂っている。他の萬子を引いたら九萬であがれば九蓮宝燈の形にはなるが、他の牌でもあがれる場合にどうするか。いや、振りテンになったらどうするか。いろんな迷いが交錯する。上手は安全牌を切る。そして、残り少なくなった山に私の右手が伸び、いつものなれた手つきにさらに力をいれて、ツモる。この牌は、絶対にあれでなければならない。そう、九萬でなければならない。九萬であってくれ。私のすべての精神力を右手の人差し指、中指、薬指に込め牌をツモる。私の右手の親指がいつものような動作で、しかし全神経を集中させて盲牌する。そして、その親指はしっかりと萬の字をとらえていた・・・・・。
 他のどんな数字であろうと、九に変えてしまえと親指に念力をこめてツモる。親指はしっかりと九の字を認識していた。ああ。既に四分の一世紀もたってしまったが、その盲牌の感触を今も鮮明にこの親指は思い出すことができる。このとき私は、やはりこの宇宙は私を中心としてすべてが動いている、私がすべての中心なのだということを実感した。六草をきる。六草は手牌の13枚の中程に入れてあり、手牌の中から出したことを強調した。
 手牌には13枚の萬子が並び、牌の下部の赤い萬の字が確かに回り灯籠の様にゆらゆらとゆらめき、その模様は、九蓮宝燈と呼ぶにふさわしい有様であった。私の六草切りのあと、下家のH君がつぶやく。「勝負してみよう」と。げ!ここで、親に振り込まれたら、すべてが無に帰してしまう。親は無言である。H君のつぶやきが続く。「まだ、清一はテンパイしてないだろう。勝負!」ああ。高校時代からの同級生のH君。君はなんていい人なんだ。高校時代もいつも僕には優しくしてくれていた。別の中学だったけど岐阜新聞の模擬テストではよく名前がでてたから、すでに中学時代からの永い友人のような気がする。
 彼は数字の部分をひとさし指で押さえて牌を切った。その指の先には赤々と燃える萬の字があった・・・。四萬であった。「ロン!九蓮宝燈だ!!」部屋中に響けとばかりに大きな声をあげ、格好良く手牌を倒す・・・つもりであったが、興奮して手が震え、ばらばらとしまりなく手牌を倒した。他のメンバーは声もでず、私の手牌を見ていた。雀荘全体がひっくり返ったような大騒ぎになり、総立ちになる。みんなが自分の手牌を倒して局を中断して、我々の卓に集まってくる。「本当に九蓮だ」「萬子でやりやがった」「真性九蓮だ」「フリテンなしだ」さまざまな声が響いてくる。「あいつは、いかさまできるような腕じゃないし」「近いうちに死ぬんじゃない」みんないいたいことをいっている。
 私はこの瞬間に世界が私を中心にまわっていることをはっきり認識した。運命というものが私に何かをせよといっているように感じた。今から思えば勘違いであったろうが、そのときは私は麻雀の神様となるべく道が開かれたと思いこんだのだ。そして、転落の道を歩んだ。
 モノローグ
 人は九蓮宝燈は萬子だけのものではないというが、それは筒子や草子で同じ数字の組み合わせで上がった人たちが言っていることであろう。萬子で上がった人は必ず言うであろう。九蓮宝燈は萬子だけのものであると。緑一色は草子と発で上がるものであり、大車輪は筒子独特のものであるはずである。九蓮宝燈は赤い萬の字ゆえに宝燈と呼ばれているのであって、草子なら九蓮宝草、筒子なら九蓮宝筒と読んでほしい。それでも、なお九蓮宝燈は萬子だけにあらずと主張されている方が、あるかもしれない。その方には私はこう言いたい。「一度萬子で上がってみなさい。その瞬間からあなたの主張は変わるでしょう」と。また、14枚であがった形が一が三枚、九が三枚、二から八までが一枚ずつそろっていれば、九面待ちでなくても九蓮宝燈という人もいるが、私はそれも違うと思う。完全な九面待ちでしかも萬子で、しかもフリテンではなく、付け加えるならばつも上がりではなく(つも上がりでは待ちをごまかす場合がある)、他家からでた牌でロンと叫んで上がりたい。私はこの場合のみを九蓮宝燈と呼ぶ。それ以外は、九蓮もどきといってはっきり区別したい。一緒にしてもらっては困る。それは厳しい、それは違うとおっしゃるむきもあろうかと思うが、その方たちにはもう一度言いたい。「一度、この完全な形で上がってみなさい。上がった瞬間にあなたはこれまでの説を変える」と。その高貴な牌姿、完璧な待ち、ロンといった時の感激、これらのものは九蓮もどきでは得ることのできないものである。、

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