お酒と私

来場者数学内用は学内のみ、学外用は学外からのみカウントアップします。 Since July 13th, 1999.





プロローグ
 私はお酒が大好きである。元来がアダルトチルドレンといわれるくらい幼児性があるので、このこと自体が既に酒に酔っている状況を表しているのかもしれない。
 私は1/4世紀に渡りほとんど毎日お酒を飲んでいる。お酒を飲むことができない日(寮の宿直など)があると、必ずその明くる日にリバウンドで倍以上飲むので、平均的には毎日コンスタントに飲んでいることになる。おそらく、私が死ぬときは肝臓からやられるものと思う。しかし、酒をやめると今度はストレスが溜まり、そちらの方が早く死ぬような気がする、等と勝手に言い訳して相変わらず毎日飲んでいる。酒を飲んだために起こった失敗談、苦い思い出を振り返ってみる。

第一話「あの夏の日の冷や汗が出る思い出」
 私は酒が好きである。学生の頃は吐くまで飲むというような無茶をしていたが、結婚してからは安定期に入り適量を飲むようになった。そんな私がアル中ではないかと自分でも自分を疑い始めるほど酒量が増えた時期があった。
 それは私の父が癌に侵され、手術を繰り返したころに始まる。父は喉頭癌に始まり、肺癌、大腸癌、肝臓癌と転移し、その都度手術をした。術後は集中治療室に3日ほど入ることになるが、母にかわって夜は私が泊まり面倒を看た。家族の中で私が一番暇そうであったからである。夜は看病をし、昼間は高専で授業をし、授業のないときは眠るという(そのころの校長先生が実体を知ったら怒りだすような)生活をしていた。おかげで夜と昼が逆さまになり、夜になっても寝られない状況になってしまった。酒を飲んだ勢いで寝るのだが、酒が覚めると眼がぱっちりとあいてしまいまた寝られなくなる。いきおい、もう一度酒を飲んで寝ようとするのだが、酒が強いためになかなか、酔いが廻らず、寝付くことができない。自分の酒の強さを恨んだものだ。
 酒量が増えるにつれて、我が家の家計も圧迫され始めた。始めはビールなどを飲んでいたが、そのころには水と同じ用にしか感ずることができず、お腹だけ膨れて酔えないのでウィスキーに切り替えた。酔えばいいので安いウィスキーを飲んでいたが、次から次になくなると、つい、とっておきのナポレオンなどにも手を着け始めてしまう。のめればいいのだから安いも高いも区別なく飲む。しかし、高級ブランディーは口当たりがいいのですぐになくなってしまう。
 ある日、買い置きの酒がなくなり、家中を手当たり次第酒を求めてあさり始めた。ほとんどアル中の状態である。そして、ついに発見した。子供たちの梅酒を。
 我が家では毎年夏が近づくと、梅酒をつくる。子供たちが夏休みにプールなどからかえってきたときに飲むためである。お酒だからよくないのかもしれないがかなり水で薄めて飲ませている。とてもおいしいようで(遺伝かな?)子供たちも毎年夏がくるのを楽しみにしている。
 私が梅酒に手を着け始めたある日、妻が私に子供の書いた作文をみせた。妻が役員会で小学校に行ったとき、担任の先生から手渡されたものらしい。
「ご主人はよっぼどお酒がすきなんですね」と笑ってみせてくれたそうだ。

「僕のお父さん。
         3年2組 稲葉崇。
僕のお父さんは酒が大好きだ。毎日かえってくるとビールを飲みながらご飯を食べ、ご飯を食べおわるとウィスキーを飲み始める。お風呂に入ると酔いが醒めたと言ってまた、お酒を飲み始める。寝る前にも寝付かれないと言ってまた飲み始める。のむお酒がなくなってしまって、最近どうやら僕たちの梅酒にまで手を着けたようだ。僕たちの梅酒は夏休みまでもつのだろうか。とても心配だ」

いやはや何とも。妻の憮然とした顔が目に焼き付いている。その後とりあえず梅酒を飲むのはやめたが、なかなか口当たりがよくおいしかった。でも梅酒で酔っぱらうほど飲むというのもなかなか大変である。


第二話「ある冬の日の脂汗をかいた思い出」
 お酒の量が増えていた頃、仕事も増えていた。特に、学会発表が多く、年に20回近くこなしていた頃もあり、必然的に東京へ新幹線で出かけることも多くなる。私は羽島駅に車をあずけ、新幹線で東京へ行く。その日は、東京タワーのすぐ北にある機械振興会館というところで学会があり、発表は午後四時からの予定であった。12時頃に会場に着いたがまだ時間があったので、昼食を取ることにした。東京タワーの下にある建物の二階によく行く中華料理店があり、そこで料理を頼んだ。このとき、つい、いつもの調子でビールを頼んだのが間違いの始まりだった。日帰りの予定だが、羽島駅に着くのは午後8時頃だから今飲んでも充分さめるなと計算したのが問題だった。飲み始めたら一本のビールですむはずがなかった。
 まだ1時だから7時間もあれば充分さめるな、等と考えてビールとつまみを追加した。つまみさえあれば一人でも宴会みたいに酒が飲めるから怖い。時計が2時を指す頃にはビールを三本飲んでいた。はーよく食ったし、よく飲んだ。ちょっと酔っぱらったな。えーと今日はどうしてここにいるんだったっけ。あ、そうか学会発表だった。えっ!!!学会発表!!!いま、何時だっけ!2時!!
私はあわてて外へ飛び出した。外は木枯らしが吹いて今にも何か降ってきそうな天気だった。びっくりして酔いも醒めるかと思ったが、これだけは醒めない。あわてて会場の受付を済ませた。たぶん顔はお酒で真っ赤のはずであるが、寒い外気から暖房の利いた暖かい部屋にはいったことで顔が赤いんだろうと思ったのだろう。受付の女の子は全く気がつかなかった。そりゃそうでしょうね。まさか神聖な学会に、昼日中からお酒を飲んで入ってくる研究者がいるなんて思うはずもない。一番後ろの席で私は必死に酔いを醒ます努力をしていた。しかし、いくら努力をしても醒めるはずもなくただ時間を待つしかなかった。ビール3本くらいでは酩酊状態にはならないので、発表は何とでもなるが、問題は臭いと顔の赤いことである。発表の時間が近づいてきた。ハンカチで口を押さえながら、鼻をすすりながら話すことにした。いかにも風邪を引いて熱があるようなそぶりをすれば、熱で顔が赤いのだろうと思ってくれる。臭いも隠せる。まさか、酒を飲んでいるなんて思わないだろうし。
 発表は無事終わった。帰り支度をしているところに、企業の研究者から幾つかの質問を受け、それに答えていたが、ハンカチを口から離すことはできなかった。すべてがおわったとき、私の額には冬だというのに脂汗が浮かんでいた。私はハンカチを口から離し、汗を拭った。


第三話「春の日の苦渋(苦汁?)の思い出」
 10年以上前のことです。金沢大学で電気学会が開かれました。私は発表のために前日に岐阜から特急白鷺に乗って行くことにしました。一泊二日の旅行でしたが私は楽しみにしていました。列車の中でじっくりと酒が飲めることを。発表は次の日の午前なので、あんな失敗はしなくてすむ。ビールでは物足りないし、持っていくのが重たいので家の近くの酒屋でウィスキー(リザーブ)とつまみをしこたま買い込んで岐阜駅に向かいました。岐阜駅のホームには人が少なく、私が乗る予定の車両のもう一つの乗降口に女性が一人いるだけでした。若くて楚々としてとってもきれいなお嬢さんでした。列車がホームに入ってきました。名古屋が始発なのですが、私が乗る車両には誰も乗っていませんでした。ラッキー、これでじっくりと静かにウィスキーが飲める。景色でも眺めながらゆっくり愉しんでいこう。私はるんるん気分でした。私は切符の指定席を確認して座りました。窓側の席でした。がら空きなんだからどこでもいいんですけどね。前の入り口から乗った先ほどのきれいな女性がやはり番号を見ながら歩いてきました。どこへ座るんだろうと思って見ていると、だんだんとこちらの方に近づいてくるではありませんか。そして、そして、私のところで立ち止まり、私の隣に座るではあーりませんか。えー本当!ラッキー!!JRのコンピュータもなかなか気が利くんではないかい。などと、にこにこしていました。でも、この広い車両に立った二人で座っているところを誰かに見られたら、これは完璧に邪推されても仕方がないな、等と思ってはみても、やはり、頬はゆるみます。大垣をすぎるあたりまでは、私も満足でした。しかし、私はあることに気がつきました。このシュチエーションではウィスキーなんて飲めないじゃないか。ウィスキーはビールと違って結構臭いが漂うんです。ましてや、こんな午前中からウィスキーなんて完全にアル中だと思われてしまう。先ほどまでの楽しさはうってかわって苦痛になってしまいました。
 ポツンと二人だけが並んで座っている様は、ちょっと異様でした。よっぽど別の席に動こうかと思いましたが、窓際だからそれもしにくいし、いかにも失礼だし。隣のお嬢さんがどこかへ動いてくれればいいんだけど、そうされればされたで何となく気分が悪いし。結局金沢までこの車両には誰も乗ってくるひとはなく、ウィスキーも一滴も飲めませんでした。トホホ。
 学会は金沢大学で開かれ、翌朝の一番始めに発表しました。学会へ出ても他の講演を聴くことはあまりありません。金沢大学はお城跡にあり、有名な兼六公園もすぐそばにあるのですが、まっすぐ駅に向かいました。まだ、午前中で特急電車も空いており、私は早々にウィスキーを取り出し、つまみをぱくつき、ひとりで宴会ムードに浸っていました。電車の振動と、車窓からみえる田園風景を肴に気分良くできあがっていたと思います。どこの駅かもう忘れてしまいましたが、空いていた車両に突然春休みの旅行と思われる幼稚園児とその保護者(若いお母さん)がどっと乗り込んできたんです。
 あっと言う間に、その集団に取り囲まれてしまいました。結構指定席は空いているのに、何で私の周りだけいっぱいになるんだろう。ほとんど酔いが廻っている私をみて、幼稚園児は最初物珍しそうにしていましたが、そのうちに私の存在は忘れてくれたようです。それに対して、若い母親たちは時々こちらを見ては「朝っぱらからウィスキーを飲んで!」と言うような非難の眼差しを向けてきます。私は、開き直って無視して飲みつづける!といった度胸もなく、視線に耐えられず、目をつむって眠ったふりをするしかありませんでした。岐阜駅に着いたときにはすっかり酔いもさめてしまい、苦い思い出になってしまいました。


第四話「年の瀬も押し詰まったある日の最悪の思い出」
 十年ほど前の忘年会のことであった。事務職員と教員との全校合同の忘年会が岐山会館(現在のグランウェーレ岐山)で行われた。車をホテルに預けて明くる日の早朝に車を取りに行くつもりでお酒を飲んだ。ビールをしこたま飲んだあと、柳ヶ瀬へと繰り出した。いつもは二次会でおわるところを三次会、四次会とつきあいしかもウィスキーばかりしこたま飲んでしまった。家までどのようにたどり着いたのか、明くる朝は全く記憶になかった。ただ、ただ、二日酔いで頭が痛かった。しかし、食欲だけはあり、しっかりと朝食をとった。あとから思うとこれが拙かった。
 車を取りに行くために、妻の車で岐山会館まで載せていってもらうことにしていた。妻の車は買ったばかりであり、新車特有の接着剤の臭いがしていた。
 柳ヶ瀬までは朝の渋滞に巻き込まれ、ちょっと進んでは止まり、車酔いには最高のシュチエーションであった。若宮町通りにさしかかった頃は、二日酔いなのか車酔いなのかわからない状態で、一刻も早く岐山会館に着いてくれることを願っていた。そして、車が会館の駐車場に入り私がほっとした気のゆるみと、車が最後に止まる振動で、一気に気持ちが悪くなり、ドアを開けるまもなくとうとう吐いてしまった。新車のシートはべとべとになり、妻は唖然としていた。昨日の酒と今日の朝食に胃液がミックスされた臭いはえもいわれぬものであり、いくら洗っても消えるものではなかった。二年ほど前に妻の車を買い換えたが、まだ、そのときもかすかに臭いは残っていたような気がする。妻はしばらく口をきいてくれなかった。


エピローグ
 私の部屋には薄汚れた「電子回路ハンドブック1」(CQ社)が棚に置いてある。シリーズものの2や3に比べ、それだけが異常に古く、紙はでこぼこに浮き上がり、異様に膨らんでいる。オペアンプの話をするときには学生にはいつもその本を見せて読ましている。学生たちは私がその本を熟読し、私の汗と涙でぼろぼろになり分厚くなっているものだと思っている。学生たちは全く知らない。私が大学院の忘年会で酔いつぶれて、その本の上でげろを吐き、明くる日あわてて水洗いしたことを。おかげで水膨れで膨らんでしまった。25年も経っているが、臭いは今でも残っているような気がする。でも、学生は何も知らずに、年代物の貴重な本を扱うように、一生懸命その本を読んでいる。
 
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