愛知大学(旧陸軍第15師団)

豊橋市町畑町ほか
設計:第二次臨時陸軍建築部名古屋支部  施工:大林組

現存する主な建物
記念館(旧大学本館、旧師団指令部庁舎) 明治41年(1908) 国登録文化財
短大本館(偕行社)           明治42年(1909)
公館(旧第15師団長官舎)       明治45年(1912)

陸軍第15師団の設置

明治38年(1905)日本政府代表小村寿太郎がポーツマスでの日露講和条約で、 占領地賠償金なしの不本意な調印をせざるを得なかったのは、これ以上戦争を続ける国力、 戦力がなかったためでした。そのめた翌年の明治39年(1906)、第一次西園寺公望内閣は 4個師団の増設を決定しました。そのうちの第15師団が東海道筋に配備されることになりました。

その年の8月、豊橋は全国で62番目の市となりましたが、零細な蚕糸業を中心とする 工業と地元資本では今後の発展はあまり期待できない状況でした。師団が設置されると 一万人以上の人口が増加し、消費人口も急増します。また、師団周辺の関連企業は市の 発展に大きく貢献すると予測されました。そこで豊橋市は大口喜六市長を先頭に師団誘致を 目指して、沼津・浜松・岐阜と誘致競争をしました。

翌年3月、師団の設置は豊橋に決定しました。この最大の要因は、豊橋が他の競争相手に比べ、 師団設置に不可欠な高師原・天伯原に広がる2,300町歩という広大な演習用地があったからです。

第15師団の設置は豊橋の町の様子を一変させました。市街地にあった遊郭を東方へ移転し、 幹線道路の拡張や新設、豊橋駅の拡張工事など都市整備がおこなわれました。特に高師の 富本地区(現在の愛知大学前)には新道(現在の国道259号)にそって料理店・飲食店・ 芸妓置屋・写真屋が並びました。農家では部隊の人馬糞が「鎮台肥」とよばれ貴重な飼料と なりました。当時の人口が4万2千でしたので、師団の設置が豊橋にどれだけ大きな影響を 与えたかがうかがわれます。

豊橋には、すでに明治18年(1885)に名古屋鎮台豊橋分営として第3師団の歩兵第18連隊が 吉田城跡に駐屯していました。これに加え、高師の歩兵60連隊はじめ騎兵・砲兵・輜重の 各連隊、向山の工兵大隊が設置され、浜松などの部隊とあわせて第15師団に編成され、 師団司令部が設置された豊橋は軍都としての性格を強めていきました。しかし、一方で消費依存の 軍都の性格がかえって豊橋の工業化・近代化を遅らせることになりました。

師団の建設

敷地の造成は明治40年(1907)12月から、建築工事は明治41年(1908)2月から 始まりました。建築工事を 請け負ったのは大林組で、同年の10月にはほぼ完了し、11月16日に開庁しました。 そして、明治42年(1909)5月に完工しました。加藤十次郎など地元の建設業者も多く参加し、 なかでも地元資本で設立された牟呂組はセメントなど建築資材を提供しました。

師団の廃止とその後

第15師団は、第一次世界大戦時には北部満州に派遣され、関東大震災には救援隊を派遣する など活躍をしました。しかし、第一次世界大戦後、国際協調・軍縮の動きの中で大正14年 (1925)、加藤高明護憲三派内閣は4個師団の廃止を決定し、これに含まれた第15師団は 廃止となりました。歩兵第18連隊などは存続しましたが、師団兵営門前町は一時、火が消えた ように廃れてしまいました。

翌年の昭和2年(1926)、歩兵第60連隊跡地に豊橋陸軍教導学校が新設され、再び賑わいを みせるようになりました。昭和14年(1939)には豊橋陸軍第一予備仕官学校が開校し、 敗戦まで存続しました。戦後の昭和21年(1946)11月、士官学校跡地に愛知大学が創設され、 かつての軍都も文教都市を目指して復興の一歩を踏み出しました。

第15師団の建物

旧第15師団の施設は愛知大学やその周辺に今でも数多く残っています。日本建築学会による と旧軍事施設の再利用は、北海道の屯所をはじめ124件あります。 愛知大学のように、機銃廠、厩舎、門や塀など一連の施設が残っている のは全国でも極めて珍しく、東海地方では唯一です。かつての兵舎は大学の校舎として活用され、 長い間使われてきました。しかし、近年は大学構内の整備などによりそれらの建物が急速に なくなりつつあります。

第15師団の建物は全体的に、明治末期の兵営の量産体制のもとでの簡略化・標準化が 進められています。それでも、司令部庁舎、将校集会所などはそれぞれの格式をよくとどめています。

記念館(旧大学本館、師団司令部庁舎)

木造2階建、寄棟造、桟瓦葺で東西の翼屋が後ろへ突出したコの字形平面をしています (現在、翼屋部分は解体されています)。中廊下式で、中央の階段を上った正面に師団長室が ありました。外観は正面の大型ペディメントや玄関脇の付け柱によってルネサンス風に まとめられています。内装は階段室広間・階段・師団長室などの主要室以外は簡素です。 装飾は大学内の他の遺構に比べ優れています。

平面形態は第一次臨時陸軍建築部の手になる金沢第9師団や善通寺第11師団司令部庁舎に よく似ていますが、こちらは車寄が省略されていたり、外壁が漆喰から下見板張りへと 簡略化されています。

大学短期大学部本部(旧偕行社)

偕行社は明治43年(1910)の皇太子行啓のための宿泊所として、その前年に建てられました。 その後偕行社に転用されました。木造2階建、寄棟造、桟瓦葺で中央階段室が突出しており、 さらに車寄が付きます。竣工時の写真によると正面の階段室入母屋の屋根部分に唐破風が付き、 擬洋風的な外観でした。内部の階段には複雑な繰形装飾が施されています。 また、屋根のトラス材の一部に鉄材をつかっています。

旧偕行社は皇室宿泊施設として計画されたことや施工者が異なることから、第15師団の 他の兵営施設とは趣が違う感じがします。

公館(旧第15師団長官舎)

師団長官舎は洋館と和館を巧みに組み合わせた木造平屋の住宅です。 洋室には美しい中心飾りや暖炉が残り、質の高い当時の意匠をよく伝えています。 師団長として久邇宮邦彦が着任しています。

その他の関連建物

現存:大講堂(現第2体育館)、第二機銃廠、将校集会所(現綜合郷土研究所)、 司令部正門(現大学正門)、歩兵第60連隊正門(現大学通用門)、塀、 騎兵第25連隊炊事場(現泰東製鋼作業所)、騎兵第26連隊営門・哨舎 (王ヶ崎東公園内に移築)

最近、取り壊し:自動車庫、兵舎(短大4号館)など


愛知大学公館(旧陸軍第15師団師団長官舎)

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