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第24回全日本実業団女子駅伝(補助員)
補助員なので写真は撮れませんでした。役員の先生は撮ってたけど。

補助員をやってきました。仕事は「荷物係」ということで、各中継所を回って選手の荷物を運ぶ係です。
なんかすごそうですが、毎年荷物は一つもありません。実業団ですから付き添いぐらい居ますって!!

各 区 間
中継所
距離
有名選手
1区
長良川競技場 〜 加納新本町バス停
6.6km
大平美樹
2区
加納新本町バス停 〜 岐阜県庁
3.3km
杉森美保
3区
岐阜県庁 〜 大垣市総合体育館
10.0km
渋井陽子
弘山晴美
Rワンジル他
4区
大垣市総合体育館 〜 大垣市林町
4.1km
嶋原清子
5区
大垣市林町 〜 陽南中学校
11.6km
土佐礼子
福士加代子
大南敬美
6区
陽南中学校 〜 長良川競技場
6.595km
大山美樹
藤永佳子

五輪ランナーが勢揃い!!しかし・・・

そんなことはこの際どうでもいいのである。これからの話が単なるマニアトークになりそうなことを先にお詫びしておく(敬称略)。

日本中がアテネの感動に沸いた夏、その主役だった選手たちがそこにいた。マラソン金の野口はいなかったが、土佐がいた。渋井もいた。 実際は見なかったが坂本もいたし、福士も、大島めぐみも弘山も杉森も・・・このマラソン大国ニッポンを支える数え切れないほどのトップランナーが岐阜にいたのは事実である。 しかし、これから長良川競技場を出発しようとしたそのときに目に入った光景が、今日一日分の驚きと、喜びと、感動を使い果たしてしまったように思う。

阪田直子(立命大)がいたのだ。

しかも、ワコールのジャージを着て、選手のものであろう大きな荷物を抱えて。

この名前を聞いてピンと来る人が、今どのくらいいるだろうか。
2000年岐阜インターハイ女子3000m決勝。優勝候補筆頭は、前年のこの種目で藤永(当時諫早高→筑波大・資生堂6区)を破って優勝した、この種目高校記録保持者の阪田直子(当時立命館宇治高)だった。 いや、候補というよりも、阪田の故障が癒えたことで、他の選手の優勝の可能性は限りなくゼロに近いものとされていたのだ。 直前の雑誌の論評もそろって「阪田勝利」を”宣言”していた。そして、レース本番・・・

スタート直後は奥永(鶴崎工・現九電工)が引っ張ったが、1000m手前で阪田とその後輩である池田(現立命大)が先頭に立ち1000mを3分02秒で通過。 2000mを6分06秒で通過したあたりで先頭は阪田・池田・ワンジル(仙台育英・現日立)に絞られる。残り1周の鐘が鳴ると阪田がスパート。一気に差が開き、二人は遅れた。 誰もがそのとき、「阪田優勝」を信じて疑わなかった。しかし、レースはこれで終わらなかった。

阪田が優勝した1999年大会は決勝最下位で「この一年、優勝することだけを考えて練習してきた」というワンジルが徐々に阪田との差を詰める。水濠のあたりで追いつくが、阪田もそれに気がつくとすかさず再スパート。 両者への叫びにも似た声援が会場に響く。 どちらとも譲らず残り50m。わずかに阪田が前に出た。そして残り10m、阪田が勝利を確信しガッツポーズをしようとしたその瞬間、会場が静まり返り、それはしばらくしてざわめきに変わった。・・・ワンジルの勝利だった。

1位ルース・ワンジル 9分01秒22/2位阪田直子 9分01秒33。
ともに大会新の劇走だった。

これが、現在も続く女子3000mにおける「外国人留学生連勝記録」の始まりである。

恥ずかしながら私は、レースが終わるまで阪田と池田がどちらがどちらということを知らなかった。 しかし私は、日本人が外国人留学生とここまでの接戦をする数少ないレースを見ることができたこと、 そしてこれからの日本女子長距離界を背負っていく逸材をこんなに近くで見ることができたことが、どうしようもなくうれしかった。 そしてその日から、私は陸上競技マニアになったのである。

翌日の岐阜新聞のインターハイ記事の見出しは「阪田、優勝スルリ」。岐阜とは何の関わりもない一人の女子高生の2位という成績が、その日のトップだった。 それだけ、あの日の阪田の「敗北」は衝撃的だったのである。

阪田が高2でマークした日本高校記録(8分56秒49)は、現在も破られていない。

現在の高校女子長距離界は、8分台や9分0秒台でも勝てなかった当時に比べるとやや寂しくなったように思う。 いや、そう考えるよりも、2000年前後の時代が特別だったのだ。だからこそ、世界有数の選手層を誇る日本女子長距離界の期待を一身に背負わされた阪田は、その年に高校を卒業して以来さっぱりレースに姿を見せなくなったのだと私は思う。

それでも私は阪田の復活を待ち続けた。インターネットで検索しても、出てくるのは高校時代の記事ばかり。その後の試合結果などが見つかったと思うと、高校卒業直後の熊本中長距離競技会以外はすべて「DNS」だった。
私はそれが悔しかった。私も多くの陸上関係者同様、阪田がこれからの女子長距離界を強くしてくれるんだと期待を寄せていた。その結果がこれである。
彼女の現在をつくった責任は自分にもあるのではないかと、こういう私のような発想でしか選手を見れない人たちがいたからこそ、彼女は走れなくなってしまったのではないかと。 大して走れるわけでもない故障明けの足でわざわざ京都シティハーフに出場したもの、「もしかしたら出てるかもしれない」の一心だった。 どんな記録でもよかった。彼女がまだ陸上を続けているという”噂”を自分の目で見たかった。 実際、彼女は京都シティハーフに参加していた。記録がなかったのでおそらく棄権だと思うが、プログラムに5000m17分台の記録があったのを見て「試合には出てるんだな」とうれしくなったし、 閉会式でちゃんと立命大のジャージを着てチームメイトと楽しそうにしゃべっていた姿を見ることができた。 それは日本陸上界の期待から解き放たれた、普通の女子大生、普通のランナー阪田直子だったのだ。

今日の女子駅伝の前に、阪田と同じ能登川中出身の後輩に聞いた「阪田さんは繊維関係の実業団に進むらしい」は正しかった。 しつこいようだが、かつて日本陸上界の期待を一身に背負っていた”立命館宇治の阪田”は、日本の女子長距離界の一部を担う”ワコールの阪田”になろうとしているのだ。

私はいつまでも彼女の復活を待ち続ける。いつかきっと、美濃路を颯爽と駆け抜ける”ワコールの阪田”に出会えることを信じて―

うわー、なんかクサイ文章!!

2000年岐阜インターハイ女子3000m写真集


1000mすぎ先頭(右端が阪田)

今回の駅伝の会場と同じ長良川競技場

ラスト1周阪田が飛び出す

優勝したワンジル

当時のフィルム写真をデジカメで撮ったのですこし汚いです。 そして肝心の実業団女子駅伝の写真はありません。補助員が写真なんか撮ってたら殺されてしまいます。

平成16年12月14日(火)

G.N.C.T. Track and Field Club