25年目の総括
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Since June. 4th, 1999.

この話はフィクションであり、登場する人物や団体は架空の存在であり、実際には存在しない。
エピローグ
世の中には不思議なことがいっぱいある。運命としか思えないような出来事がいっぱいある。科学では説明できないことがいっぱいある。科学の進歩によりそのうちの幾つかは解明されても、それでも尚、不思議なことはこの世の中に余りあるほどある。
産官学
いま、大学を始めとした研究者の中では「産官学」が合い言葉になっており、このことに対して疑念を抱く人は誰もいない。
私が高校生の時、彼はある大学の博士課程の学生であった。学園紛争の最も激しい時期であり、東京大学の入学試験が中止になったことは社会的にも大きな話題になった。医学部のインターン制度に端を発した学生運動はその後拡大し、工学部等においては、企業から金をもらい企業の研究をしている教官は、学生たちの格好のやり玉に挙がった。いやしくも「学問の府」である大学が、公害問題などで「悪の権化」である企業と結びつき、国民の血と汗と涙の結晶である税金を使い、国民の公僕である公務員が、一企業のために時間とお金を費やすことは社会的な不正行為に等しいというわけだ。
博士課程の学生であった彼は、学生運動の先頭に立ち、所属学科の教授や助教授を教室の前に立たせ、アジ演説を行い、教官を糾弾・非難し、総括した。
そのころ、大学はオーバドクターの問題を抱えていた。博士課程を卒業しても大学の助手や講師に全員がなれるわけではなく、塾や学校の非常勤講師などで生活費を稼ぎ、大学などのポストがあくのを待っていることになる。オーバドクターの中には結婚しているケースもあり、奥さんが働いて、旦那さんは子守や料理をするという現代でもありそうな図式がその当時からあった。
彼もご多分に漏れず、大学の教授陣の非難をしながらも、就職という現実に直面せざるを得ない状況になってきた。学生運動も下火になり、博士課程も終わりが近づくにつれ、「このままでは、絶対に大学に残れない」、そんな思いが頭をかすめるようになった。 ある日、大学の掲示板に、ある大学からの助手の教官公募が載った。
勤務地は遠く離れるが、世間にはよく知られた大学からの公募であった。彼は若干の迷いもあったが応募し、採用が決まった。配属されたのはかなり有名な研究室であった。企業と積極的に共同研究し、数々の研究成果を挙げているという点で。彼は転んだ。彼とともに戦い、そして、案の定、大学に残れなかった同志たちは口々に彼をののしり、非難した。しかし、下火になった学生運動の炎では、彼をそれ以上追求し総括することは出来なかった。また、彼に痛烈に批判されてきた大学側も、彼がいなくなることに安堵しながらも、彼の一転した行動に怒り、絶対に博士号を出してはいけないという意見が渦巻いた。
その後、彼は研究を中心に据えた生活を送りだした。教授の理解もあり、研究は大いに進展した。当時はその大学には博士号の審査権がなく、母校にはとても学位審査に出せるはずもない。最終的には彼の仕事を客観的に評価してくれる日本のその分野の大御所ともいいえる人物のもとで学位を授与されることになる。その大御所も当時はかなり異端視されていた。私と彼とは専門が全く違い、学会でも顔を会わせることはほとんどなかったが、たまたま、ある研究会に呼ばれて全く別の観点から講演する機会があり、研究会の若干の質疑応答のあと、懇親会で年齢を超えていろいろな話をした。
彼はいろいろな話を私にした。今から思えば、何故、私にそんな話をしたのかよくわからない。酒に酔っていたのか。周りに話を出来る仲間がいなかったのか。欲求不満がたまっていたのか。ともかく、一方的に、とりとめもなくいろんな話をしてきた。全学連のこと、民青のこと。革マル派のこと。安田講堂のこと。博士課程在学時の大学側との衝突のこと。・・・
脈絡のない話から推測できるのは、おそらく、学生運動の頃は「自分は若かった」ということだろうか。当時はやっていた「いちご白書をもう一度」というフォークソングのなかの「もー若くないさと、君に言い訳した・・・」という一節を思い出す。
「今の若者の眼はほとんどみんな死んでいる。君もだ。若いうちはいつもぎらぎらとしていなければならない。」「その対象が国家や権力でもいい。あるいは研究でもいい。既成の概念にとらわれず、絶えず批判的な眼を向けて、眼をぎらつかせて、詳細に見続けろ。そこに、真実が見えるはずだ。」話が進むにつれ、昔のことが蘇り、最後の方は完全に彼の独壇場であった。
懇親会の会場から宿泊ホテルまでのタクシーのなかで、彼は自嘲気味につぶやいた。「俺は、気に入らなければ、今でもゲバるよ」ゲバるというのは、学生運動時代の特有の表現でドイツ語のGewaltからきている。「だから、俺は万年助教授さ」 彼は博士号取得後に助教授に昇格していた。助教授までの人事は大学にもよるだろうが、おおくは講座の教授が認めれば、他からクレームがつくことはほとんどない。しかし、教授昇格については教授会の承認などが必要であり、あるいは移入教授ということも考えられ、彼は自分の将来をまたしても危惧していたのだろう。そんなに心配ならちょっと抑えてゲバらなきゃいいのにとは思うが。「いいさ。俺には企業がついている。日本でだめなら外国だ。」
それから5年の月日が経った。彼からの絵はがきが届いた。住所はブラジル、所属はある企業になっていた。大学を辞めたのだろうか。それとも、籍を残したまま、共同研究で留学しているのだろうか。それにしてもブラジルとは。いつ帰ることになるかわからないと書いてあった。学会などで、彼の専門分野の研究者を捕まえ、詳細を聞いてみるが、どうも同じ大学のものしか知らないようだ。いろいろな噂がとびかい、久しぶりに彼が話題の中心人物となり、盛り上がった。
あとで、いろいろな話を総合してみると、大学には少しいづらい状況になり、彼の研究者としての能力を正当に評価し、彼のよき理解者である教授が進言して、ブラジルへ行かせたようだが、ことの真相は今でも分からない。そして、いつしか彼の存在は忘れ去られた。
モノローグ 1
「産官学」は大学などのシーズと企業のニーズがうまく一致したときには大きな成果を生む。大学に眠っている人材や能力を、民間活力で有効に引き出すことが出来、最近では企業から大学への受け入れ人数や奨学寄付金等が大学のランキングの指標にされている。
しかしながら、経理が不透明なために多くの疑念が抱かれることがあることも事実である。莫大な利益が絡んでくる場合もある。最近起こっている医学部での出来事などは象徴的である。特に、能力の高い人にはそれだけ企業も期待し、お金も集まる。それは丁度、将来の有力総理大臣候補者に政治献金が集中することとよく似ている。個性が強く、能力の高い研究者は多くの集金能力があるが、それだけに羨望や嫉妬も多くなり、すこしでも不明瞭なことがあれば、すぐに反発を受けることになる。
モノローグ 2
共産主義から資本主義へ、軍国主義から民主主義へ、非体制側から体制側へ、こんな話は人間の永い歴史の中には掃いて捨てるほどある。私など人の意見を聞くとすぐに影響をうけて自説を見事に変えてしまう。そして、自己主張と自己嫌悪の狭間で躁鬱をくりかえす。
分かれ道
私と彼とは10歳離れているが、彼のことを知ったのは意外な出来事からである。
文字通りの「受験戦争」を切り抜けてきた私は、親元から離れ自由を満喫していた。自宅と高校だけの往復という灰色の受験生活から、何をやってもほとんど許されるというバラ色の生活への温度差はすさまじいものであった。すべてのことが面白く、あらゆることを大学時代に経験した。
大学一年の頃は70年安保の年であり、学校も時々そのあおりで休講になったが、私たちはその自由を歓迎していた。安保闘争で1週間の学校閉鎖になったときは、これ幸いとノンポリを決め込んで友人たちと万国博覧会(エキスポ70)を見るために大阪に行ったりして過ごした。彼はいわゆる団塊の世代であり、60年安保世代であり、私は70年安保の世代であった。
休みの日にはいつも、その地方では有名な広場にでかけ、噴水の前のベンチに腰掛けいろいろな本を読むことが多かった。その日は、梅雨の晴れ間で、夏を思わせるような日差しであった。いつものように本を読んでいる私の前に、立ち止まる人影があった。
「ちょっとお話ししたいのですがいいでしょうか。」
話しかけてきたのは、白いカッターシャツに黒いズボンをはいた、いかにも高校生らしい若者であった。この土地で見知らぬ人から話しかけられたのは初めての経験でもあり、退屈しのぎと、好奇心から彼の話を聞いた。
話の内容は宗教に関するものであり、今の時代であればほとんどの人が知っているような宗教活動をしているグループへの勧誘であった。しかしながら、30年ほど前の当時では世間にもほとんど知られることはなく、私も全くと言っていいほどの無防備の状態であった。話しかけてきた若者が私より若い高校生であったこと、私が暇を持て余しながらも好奇心だけは旺盛であったこと、宗教の話がそれ程嫌いではなく、また、自分自身という自我の存在について深く考え始めた頃であったこともあり、私は彼との会話にのめり込んでいった。
「神の存在を信じますか?」
「神の存在は信じませんが、仏の存在は信じます。私は敬虔な浄土真宗西本願寺龍谷派の仏教徒ですから」
などとからかいながら、おもしろ半分、冷やかし半分に相手をしていた。
私は工学を志している(?)人間であり、およそ宗教の根幹にある唯心論とは対局にある唯物論を理解する立場にあったので、科学的に宗教を判断して彼を論破しようと試みた。彼は私を誘い込むつもりのようだが、逆に、私が彼を説き伏せ、洗脳(その当時はマインドコントロールなんて思いもつかなかった)から解放してやろう・・・等とは全く思わず、ただひたすらおもしろ半分にからかっていただけであった。自分がそんな勧誘に乗るわけがないという自信があった。普段であれば、私のようなたちの悪いものを誘っても時間の無駄だとばかり、さっさと次の獲物を求めていくのであるが、この若者は違った。いや、このグループは皆そうなのかもしれない。
ベンチに座りながら若者と神について、宗教について、仏教について熱く語った。青春の一こまであった。気がつけばあたりも暗くなり始めていた。4時間近く話していた計算になる。
若者は私を教会へ誘った。教会には若者の尊敬する先輩で、理学部の博士課程をでた人がいるので、物理学的な観点からでも宗教を充分語れるその人と話しませんか、と言われた。敵の本丸にいくようなもので一瞬不安を覚えたが、私がそんなものにのめる込むわけがないという自負から、彼と一緒に地下鉄に乗り教会に向かった。教会は大学の一つ前の駅の近くにあった。ここにくること自体、既に、私は彼の術中に落ちていたのかもしれない。教会の扉がガチャンと閉まったとき、私の頭の中で何かが切れた気がした。
若者に紹介されたのは30歳前後の伝道師であった。その男の眼は若者と全く同じある種の雰囲気をもった眼であった。私と同じ大学の理学部の博士課程を満了したということだった。博士課程をでたものの大学などの職がなく、学習塾の講師をアルバイトでしながら、布教活動をしているという。生活は大変だが、生き甲斐があり、毎日が充実しているという。私とは同じ大学であるということもあり、また、さすがに理学部の博士課程出身らしく理路整然と説明され、私は自分の軽薄さを思い知らされることになった。
いつしか話は、伝道師が博士課程の頃の大学の様子やこの宗教に入門するきっかけ等に移っていった。博士課程の頃、学生運動に熱中し、仲間と一緒にデモを行い教養部に立てこもったこと、他の学部と連携して大学側を総括したことなど、私には非常に新鮮に思えた。その後、仲間もどんどん減っていき、気がつけば博士号をとれなかったという事実と、卒業してもどこにも就職口がなかったという現実だけが残り、そのころにこの宗教に出会い、世界が一変したそうだ。
ここではじめて私は10歳年上の彼の話を聞かされた。伝道師と彼は同志であった。彼はあっと言う間に自説を曲げ、将来のために仲間を裏切ったと痛烈に批判した。それは宗教家の言動とは思えない激しいものであった。私はこのときはじめて、同じ学科で10年上の未だ見ぬ先輩の存在を知った。
次の土曜日に新しく入った信者に対する洗礼の儀式があるので是非でるように言われ、私はいつの間にか再開を約束してしまっていた。別れ際に握手のために出してきた手からは、何かのつながりがこれで出来たというような感覚、もうこれでもどることはできないというような強い意志を伝えてきた。私はその手を笑顔でしっかり握り返していた。
迷っていた。明日は土曜日。洗礼を受ける約束をしていた。手には握手をしたときのぬくもりが未だ残っているような気がした。新しい生活が開ける気がした。そこには、私が思ってもみなかった真実の世界があるような気がした。一方、私は家族のことを考えていた。大学に進学してからは下宿をしたため家族とは離れているが、おそらく家族は反対するだろう。特に、父親は猛烈に反対するであろうことは目に見えていた。迷いに迷った。そして、私は現世にとどまることを結論に選んだ。教会に不参加の旨を伝えるときには心がいたんだ。あの固い握手をしたのに、裏切ってしまった、という忸怩たる思いがあった。結局私は家族や現実の世界を捨てることが出来ない人間であったという、劣等感にも似た感情に襲われ後悔していた。
その後、駅や公園などで勧誘している信者を見るたびに、ことさらに無視するようになった。時を経て、その宗教集団が地域住民とトラブルを起こしたり、脱会を巡って信者の家族との壮絶なやりとりがマスコミに取り上げるようになり、ようやく私はあのときの選択が間違っていなかったことを知ることになる。考えてみればこの時点でようやくいわゆるマインドコントロールからこのとき完全に解き放たれたと言ってもいいのではないだろうか。あのときの決断、あれは本当に危機一髪の人生の分かれ道であっただろう。あのまま洗礼を受けていたら、今頃どうなっていただろうかとぞっとすると同時に、少し残念な気もする。今の現実の人生に対する悔恨が主な要因であろうが、ひょっとしたら、30年経った今でも、完全に解き放たれていないのかもしれない。
いずれにしても、私は現在の人生の道を選び、未だにその先にある私の存在理由を見いだせずにいる。
モノローグ
救いを求め、すがりつく宗教。そうすることによって、心の安楽を得ようとする宗教。悩んでいるとき、落ち込んでいるときに忍び込んでくる宗教。人がその主義や主張を簡単に変えてしまうように、いとも簡単に宗教を信じ込みそしていとも簡単にそれを捨ててしまう。しかし、その根は常識では考えられないほど深い。
不思議な縁
「・・・君じゃないか。久しぶりだな」
学会に出席していた私は次の会場にむかって歩いているときに正面からきた集団の中の一人に呼び止められた。
彼であった。ブラジルでの生活がそうさせたのだろうか、浅黒く精悍な顔つきであった。彼は大学に復帰していた。しかも教授として。彼の上にいた教授が退官し、その教授の後押しにより彼がブラジルから呼び戻された。彼のことを快く思っていなかった世代の長老教授たちが軒並み定年退官してしまい、現役教授たちはむしろ、彼の言いたい放題の言動を自分たちのいえなかったことを代弁してもらっていたような面もあり、特に強く反対されることもなかった。むろん、彼の学問的な業績は他の候補者の追従を許さない、圧倒的に優れたものであったことが最大の理由ではあったろうが。少壮教授として、企業との共同研究を通して世界的な、最先端の仕事をしていくつもりだと語った。
しばらく立ち話をしているうちに、一緒にいた集団は先に行ってしまったが、一人だけ、私たちの話を後ろで黙って聞いていた人物がいた。私とほぼ同い年ぐらいであり、いつまでもいるところを見ると彼の講座の講師か助手であろう。私は軽く会釈をかわしたが、澄んだ眼が印象的であった。
彼はその後精力的に研究活動を続け、幾つかのすばらしい業績を挙げ、その分野では確固たる地位を築きつつあった。日本の著名な100人の研究者にも選ばれて、雑誌や本などにも紹介されていた。一方、私も狭い分野ではあるが地道に研究活動をつづけていた。企業と結びついて派手な研究はなかなか出来ないが、アイディアで勝負して文部省の科学研究費や民間の学術奨励金をかなりいただき、地味ではあるが幾つかの業績を挙げ、私の分野ではそれなりに認められてきてはいた。
時が流れ、彼と再会したのはある懇談会であった。懇談会は「産官学共同研究」に関するものであり、ある官庁が主体になってメンバーを集めたものであった。彼は企業との共同研究について、その実績から大いに持論を展開した。私はその必要性を認めながらも、その危うさを指摘し、一定のルールと情報開示の必要性を主張した。懇談会終了後に二人だけで久しぶりにいろいろな話をしたが、相変わらずの元気の良さであった。自分の講座の最近の学生の気質を語り、研究室の運営に苦慮しているという。このままでは日本の将来はあわゆいと憂慮していた。相変わらず「今の学生の眼は腐っている。目的をもってぎらぎらしていないといけない」と自説をぶっていた。志は高いけれども、学生運動の頃の実体を聞かされている私としては、その姿勢に何かわからないが一抹の不安を感じていた。
彼が死んだ。
突然の死であった。
夜の高速道路で側壁に衝突してスピンをし、車は大破・炎上したという。即死であったらしい。夜の高速道路で通行量も少ないため、事故前後の目撃者がいなかった。警察の現場検証では、ブレーキ痕がないことから、居眠り運転であろうと推測されたようだ。彼が委員長になっている国際会議が近く開かれることになっており、その準備で忙殺されていたという。
現役の著名な大学教授の交通事故死ということで新聞の社会面にも結構大きく掲載されていた。彼の死を私は新聞で知ったのであるが、不思議とそれ程の驚きがなかった。彼には何かが起きるような予感があったという方が正しいかもしれない。それが交通事故死という形であったとは予想もしていなかったが。
葬儀に出席したが、現役の大学教授らしく盛大に行われ、大学関係者だけでなく、官庁や、企業からの弔問が相次いだ。講座の助教授が葬儀委員に名を連ね、けなげに葬儀を取り仕切っていた。ワンマン教授であった彼を失った講座が今後どうなっていくのだろうと思うと、残された家族だけではない悲しみを感ずる。しかし、同時に私の頭の中には、それが何かははっきりしないが、なにか、ザラッとしたものも一瞬感じた。丁度、胃にできた小さな潰瘍の上を食べ物が通るときに感じるような。
焼香に立ち、彼の遺影の前で黙礼したとき、彼が、彼の写真が何かを語りかけているような気がした。
葬儀後、その大学の教授や知人たちと喫茶店に入り、彼にまつわるいろいろな話をした。想像どうり、彼はワンマン教授であり学生指導は相当に厳しく、よく学生を叱りつけていたという。超有名講座で大学の看板研究室でもあるので、配属希望学生が非常に多く、また、企業からも研究者を受け入れており、マンモス講座であるという。運営されているお金も普通の大学教授の何十倍という額だそうである。女性秘書も講座で雇っている秘書の他に企業から出向で2名がきていたそうだ。華やかな研究室の裏側にはけっこうトラブルもあったらしく、教授と院生の衝突が耐えなかったらしい。企業との関係も、利益が絡むだけに難しく、最近では共同研究している企業のライバル社からのアプローチが激しく、教授と現在の共同研究相手の企業との間でかなり深刻なトラブルがあった等という噂も聞かされた。学生と教授、企業と教授の間に立って苦しんでいたのが助教授だそうだ。彼のもとでやっていけるのはあの助教授ぐらいだという。真摯で純朴な人柄であり、先代の教授の時の博士課程出身であり、そのままその講座に残り、助手、講師そして助教授と順調に昇格してきたという。教授も彼無しでは講座を運営することはできないと考えていたらしい。
大学としても、あれだけの研究費も人材も研究テーマもととのっている看板学科、看板講座をなくしてしまう訳にはいかないだろうし、かといって、他から教授だけつれてくるわけにもいかないから、順当なら助教授がそのまま教授になるのではないかという話だった。私は、ふと、彼自身はどういうつもりでいたのだろうと思った。
また、ある知人は最近彼が躁鬱気味だったという。突然学生を叱責したかと思えば、思いやりのある声を掛けていたという。耳鳴りがしたりして、なかなか寝付きが悪くなり、時々睡眠薬を使用していたとも聞いた。そんなこともその原因であったろうか。
教授たちの宴会では彼はよく、「6月の赤いバラ」や「フランシーヌの場合」等の妙な歌を好んで歌っていたという。彼の経歴を知っている私や一部の知人はそれを聞いて顔を見合わせていた。いったい彼はどんな気持ちでそれをうたっていたのであろうか。
「・・・先生。よろしくお願いします」
産官学の懇談会に出席するために、駅から会場となるホテルまで歩いているとき、後ろから、突然呼び止められた。呼び止めたのが誰であるかすぐには思い出すことができなかったが、その澄んだ眼から、やっと、彼の講座の助教授であることを記憶の縁にたぐり寄せていた。
そういえば、今日の会議には彼もメンバーに入っていたのだった。しばらくの間、彼の代理をすべて助教授がすることで学内調整がはかられたそうだ。会議場につくまで私たちは、世間話をしながら歩いた。助教授は、以前学会で私と彼が立ち話をしていたときのことをよく覚えていたそうである。葬儀の際も、お見かけしました、と言っていた。彼は時々私のことを助教授に話していたらしい。どんな風に私のことを評価していたのか、聞きたい気もしたが、その前に会場に着いてしまった。
会議では助教授はほとんど自ら意見を求めることはなかった。彼とは大違いである。いつもより短時間で終了したので、私は助教授をお茶に誘った。
面と向かって話すのはこれが始めてであるはずであるが、何故か、そんな気はせず、年が近いこともあり、気楽に話した。やはり、話題は彼のことである。
助教授が助手の時代に彼が教授として大学にもどり、彼によって助手から講師、そして助教授へと引き上げてもらったという。仕事には本当に厳しい人であり、それだけの業績を自負していたので、他学科の教授とは結構衝突して、疎まれていたらしい。そのかわり、自分の講座、自分の学科には異常なほどの愛情を注いでいたという。学生からは厳しい教授として通っていたが、その厳しさも、そしてほんのときおり示す優しさも学生はよく理解していたという。私はそんなことを話す助教授を見て、確かにこの助教授がいなければ彼は学生から孤立してしまっていたのではないかと思った。
講座自身も実は企業との関わり合いで大きなトラブルに発展する直前の状態にあって大変だったが、なんとか、切り抜けたそうだ。国際会議とこのトラブルがこの交通事故への伏線だったような気がするという。幸い、ハードディスクのなかに講座運営に関するシークレットファイルを見つけることができ、なんとか、今までの状況は維持できるそうだ。
隠しファイルの中に、彼の日記が見つかり、その部分だけ遺族に渡したそうだ。いったい彼は何を綴っていたのであろうか。
前教授は助教授の直接の師匠であり、彼の死後は、その先代教授の口添えもあり、そのまま助教授が教授に昇格することが内定しているそうだ。わたくしも、きっと彼もそれを望んでいたに違いないと思った。
喫茶店にはテレビが置いてあり、昼のワイドショーがはじまっていた。ちょうど、そのときはある新興宗教が大きな事件を起こし、それが暴かれ始めていた頃であり、ワイドショーもそれ一色であった。テレビには被害者やその遺族、弁護士や評論家、マスコミ関係者にまじって、他の問題をよく起こしている宗教からもゲストとして何人かが招かれていた。
「ちょっと、約束があるのでこれで失礼します」
助教授は突然そういって、喫茶店をさきに出ていった。話はだいたいつきかけていたので、私も一緒に出ようかと思ったが、助教授はあっというまに立ち去ってしまった。少し顔が青ざめているような気がした。私は取り残され、ぼんやりとそのワイドショーを見ていたが、今度は私が青ざめる番であった!!!
最初にテレビで見たときは気がつかなかった。宗教の名前を聞かされて、はじめてその人物を思いだした。25年前の初夏に教会で握手を交わしたあの伝道師の姿がそこにあった。道であってもおそらく覚えていないだろうが、その宗教名から連想して気がついた。確かにあの伝道師だ。そう気がついた瞬間、彼の葬儀後にまとわりついていた妙な気分が一気に解き放たれた。そうだ。思い出した。あの助教授は私を教会まで連れていったあの高校生だったのだ。25年も前のことで容貌も変わっていたが、今、あの宗教とリンクさせると思いだすことができる。
私は先ほどまで、すぐ目の前にいた助教授と伝道師そして死んだ彼と私をめぐる25年の時を越えた不思議な縁に思いを巡らした。そして、その瞬間私は怖ろしい連想にとらわれた。これは偶然なのだろうかと。
25年前に、自らの保身のために学生運動に背を向けて同志を裏切った彼。裏切られ、巧妙に処世する機会を逸し、学位と就職を逃し、宗教にのめり込んだ同志。そして、その同志を先輩として慕いともに布教活動をしていた助教授。これは単なる偶然なのだろうか。それとも、定められた運命なのだろうか。彼は全く助教授の過去あるいは同志との関係について知らなかったのだろうか。助教授は彼の過去を知っていたのだろうか。あの伝道師(同志)と助教授とのつながりはまだあるのだろうか。もしかしたら、これは偶然でも、運命でもないのではないだろうか。そして・・・。
私は次から次へとさらに怖ろしい連想にとらわれていた。
時が経ち、助教授はそのまま教授に昇格した。私は妄想を封印した。
エピローグ
世の中には不思議なことがいっぱいある。運命とか偶然という言葉でしか説明できないことが日常の中にあふれている。しかし、その中の幾つかは因果関係を持ち、説明のつくものかもしれない。
私には「25年目の総括」という言葉を私の頭の中からクリアすることがなかなかできない。
この話はフィクションであり、登場する人物や団体は架空の存在であり、実際には存在しない。
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