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白兎の裏日記
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Since June 11th, 1999.
パラレルワールド(夢の裏で)
6月10日 「分かれ道」3
若者に紹介されたのは30歳前後の伝道師であった。その男の眼は若者と全く同じある種の雰囲気をもった眼であった。私と同じ大学の理学部の博士課程を満了したということだった。博士課程をでたものの大学などの職がなく、学習塾の講師をアルバイトでしながら、布教活動をしているという。生活は大変だが、生き甲斐があり、毎日が充実しているという。私とは同じ大学であるということもあり、また、さすがに理学部の博士課程出身らしく理路整然と説明され、私は自分の軽薄さを思い知らされることになった。
いつしか話は、伝道師が博士課程の頃の大学の様子やこの宗教に入門するきっかけ等に移っていった。博士課程の頃、学生運動に熱中し、仲間と一緒にデモを行い教養部に立てこもったこと、他の学部と連携して大学側を総括したことなど、私には非常に新鮮に思えた。その後、仲間もどんどん減っていき、気がつけば博士号をとれなかったという事実と、卒業してもどこにも就職口がなかったという現実だけが残り、そのころにこの宗教に出会い、世界が一変したそうだ。
ここではじめて私は10歳年上の彼の話を聞かされた。伝道師と彼は同志であった。彼はあっと言う間に自説を曲げ、将来のために仲間を裏切ったと痛烈に批判した。それは宗教家の言動とは思えない激しいものであった。私はこのときはじめて、同じ学科で10年上の未だ見ぬ先輩の存在を知った。
次の土曜日に新しく入った信者に対する洗礼の儀式があるので是非でるように言われ、私はいつの間にか再開を約束してしまっていた。別れ際に握手のために出してきた手からは、何かのつながりがこれで出来たというような感覚、もうこれでもどることはできないというような強い意志を伝えてきた。私はその手を笑顔でしっかり握り返していた。
6月9日 「分かれ道」2
「ちょっとお話ししたいのですがいいでしょうか。」
話しかけてきたのは、白いカッターシャツに黒いズボンをはいた、いかにも高校生らしい若者であった。この土地で見知らぬ人から話しかけられたのは初めての経験でもあり、退屈しのぎと、好奇心から彼の話を聞いた。
話の内容は宗教に関するものであり、今の時代であればほとんどの人が知っているような宗教活動をしているグループへの勧誘であった。しかしながら、30年ほど前の当時では世間にもほとんど知られることはなく、私も全くと言っていいほどの無防備の状態であった。話しかけてきた若者が私より若い高校生であったこと、私が暇を持て余しながらも好奇心だけは旺盛であったこと、宗教の話がそれ程嫌いではなく、また、自分自身という自我の存在について深く考え始めた頃であったこともあり、私は彼との会話にのめり込んでいった。
「神の存在を信じますか?」
「神の存在は信じませんが、仏の存在は信じます。私は敬虔な浄土真宗西本願寺龍谷派の仏教徒ですから」
などとからかいながら、おもしろ半分、冷やかし半分に相手をしていた。
私は工学を志している(?)人間であり、およそ宗教の根幹にある唯心論とは対局にある唯物論を理解する立場にあったので、科学的に宗教を判断して彼を論破しようと試みた。彼は私を誘い込むつもりのようだが、逆に、私が彼を説き伏せ、洗脳(その当時はマインドコントロールなんて思いもつかなかった)から解放してやろう・・・等とは全く思わず、ただひたすらおもしろ半分にからかっていただけであった。自分がそんな勧誘に乗るわけがないという自信があった。普段であれば、私のようなたちの悪いものを誘っても時間の無駄だとばかり、さっさと次の獲物を求めていくのであるが、この若者は違った。いや、このグループは皆そうなのかもしれない。
ベンチに座りながら若者と神について、宗教について、仏様について熱く語った。青春の一こまであった。気がつけばあたりも暗くなり始めていた。4時間近く話していた計算になる。
若者は私を教会へ誘った。教会には若者の尊敬する先輩で、工学部の博士課程をでた人がいるので、物理学的な観点からでも宗教を充分語れるその人と話しませんか、と言われた。敵の本丸にいくようなもので一瞬不安を覚えたが、私がそんなものにのめる込むわけがないという自負から、彼と一緒に地下鉄に乗り教会に向かった。教会は大学の一つ前の駅の近くにあった。ここにくること自体、既に、私は彼の術中に落ちていたのかもしれない。教会の扉がガチャンと閉まったとき、私の頭の中で何かが切れた気がした。
6月8日 「分かれ道」1
私と彼とは10歳離れているが、彼のことを知ったのは意外な出来事からである。
文字通りの「受験戦争」を切り抜けてきた私は、親元から離れ自由を満喫していた。自宅と高校だけの往復という灰色の受験生活から、何をやってもほとんど許されるというバラ色の生活への温度差はすさまじいものであった。すべてのことが面白く、あらゆることを大学時代に経験した。
大学一年の頃は70年安保の年であり、学校も時々そのあおりで休講になったが、私たちはその自由を歓迎していた。安保闘争で1週間の学校閉鎖になったときは、これ幸いとノンポリを決め込んで友人たちと万国博覧会(エキスポ70)を見るために大阪に行ったりして過ごした。彼はいわゆる団塊の世代であり、60年安保世代であり、私は70年安保の世代であった。
休みの日にはいつも、その地方では有名な広場にでかけ、噴水の前のベンチに腰掛けいろいろな本を読むことが多かった。その日は、梅雨の晴れ間で、夏を思わせるような日差しであった。いつものように本を読んでいる私の前に、立ち止まる人影があった。
6月7日 「胸部X線画像に柵状陰影が!」最終回
「稲葉さん、健康そのものですね」
何じゃこりゃ、この数日の苦しみは何だったんだ。悩み、苦しみ、酒も食ものどを通らず、長いこと待たされ、検査検査で、おまけに血まで抜かれ、それでもしっかり医療費をとられるなんて。腹が立ってしかたがありませんでしたが、健康ですねと言われて怒るわけにもいかず、もともと健康診断なんだからとあきらめました。
「稲葉さん、コレステロールが多いですから、これを読んで食事に気をつけて下さい。」
医師はよくある食生活用のパンフレットを差し出した。ありがたく受け取って帰ってきたが、結局あの柵状陰影は何だったんだろう。番号がずれていたら、陰のある本人はかなり危ないことになるんではないだろうか。この話を聞いた電気の旧教間のK先生は、確率的に時々そうなるようにソフトウェアが組んであるんですよ、なんていってみえたが、冗談でしょうか。
この話は、今から5年ほど前に起こった事実です。それ以後、4回健診を受けましたが一度も陰がでたことはありません。また、私の身近で肺が原因でなくなった方もおられません。
ながーい、ながーい話でしたが、これにて完結です。あ、一つだけ思い当たることがあります。別紙のエピローグに書きましたのでご覧下さい。
6月4日 「胸部X線画像に柵状陰影が!」8
悶々とした日々を過ごした。肝臓か。確かに一番ありそうなところだ。親父は喉頭癌から肺癌、大腸癌、肝臓癌と転移していった。たぶん、私も遺伝的には胃癌よりも大腸癌や肝臓癌になりやすいのだろうと漠然と想像していた。そういえば酒がからんだ逸話には事欠かないからな。
二日後に超音波検査をするために再び病院を訪れた。相変わらず、内科は込んでいた。予約していたので、先に一階の検査室に向かった。肝臓のあたりのお腹にワセリンを塗りながら技師が色々話しかけてくる。たわいのない話をしながら検査にはいる。
順番になぞってみていく。一渡りなぞり終えたところで、技師が問いかけてきた。
「稲葉さん、どっか悪いところがあるんですか?」
それを確かめにきたんじゃないか、といいたかったが、
「健診でビリルビンが多かったので検査するように言われたんです」
と告げた。
「実は、元々は胸部X線画像で精密検査になって・・・」
私はことの顛末を不満げに話した。
「まあ稲葉さん。そういわずに。この前も、交通事故で入院した患者のX線写真から、たまたま癌が見つかった例もあるますしね」
むむ、何か見えたのかな、と不安になる。取り終わったあと、フィルムができあがるまで待ち、そのフィルムを持って内科に向かった。今回はしっかり封筒に入れられてあった。
またしても、長時間待たされてから、診察室に呼ばれた。
診察室では再び、医師がシャーカステンをじっと診ている。肝臓の画像はあまり鮮明ではなく、私にはさっぱりわからない。医師がまたもやため息をついている。何のため息だろう。しばらくしてから、医師が私の方を振り返り、そして、告げた。
6月3日 「胸部X線画像に柵状陰影が!」7
「肝臓がおかしいんですか?」
またしても、新たな不安がむくむくと湧いてきた。私の問いかけに医師は説明を始めた。
「ビリルビンは肝臓からでている血管が詰まったり、何かに抑えられると多くなることがあるんですよ」
「何かって、何?」
聞き返したかったが、それを口に出すことは出来なかった。何か=腫瘍、腫瘍=肝臓癌、肝臓癌=父親の最終的な死因、肝臓癌=治療の余地無し、肝臓癌=死。私の頭の中では瞬時にこれだけの等式が浮かんだ。
「検査の日を予約しておきますが、いつがよろしいですか?」
冗談じゃない、また、不安な日々を過ごさねばならないではないか。
「先生、今日これから超音波検査をやってもらえませんか?昼からも休みを取っていますので」
私は必死に頼んだ。が、
「今日はもうちょっと時間が・・・。うーん、まだいいけど。あ!そうだ。こうしましょう。もう一度血液検査をしましょう。その結果がでるのに二日ほどかかりますので、明後日にもう一度きてもらって、そのとき超音波検査をしてもらえるように予約しておきましょう。明後日は休めますか。あ、いいですか。それじゃ、そういうことで、そこで採血してもらって下さい」
あっというまに、日にちまで決まってしまって、私は採血するための処置室に追いやられてしまった。なんてこったい、また、明後日まで悩み多き日々を過ごさねばならないのか、とがっくりして、看護婦に採血のために手を差し出した。
「あ!痛くしないでね!!」
例によって、例の親父ギャグをとばすことだけは忘れなかった。
6月2日 「胸部X線画像に柵状陰影が!」6
「ウーン」
医師はため息とも、うめき声ともとれる音を発した。
私の心臓は早鐘の様に鳴る。
医師はさらにつぶやいた。
「おかしいな」
おかしい?なんのことだろう。どきどき!
「たしかに、このあたりにあったんですけどね」
相変わらず、こちらを見ないで医師は話している。
なんだって?あのときはあった?それじゃ、今はないのか?単なる間違いだったのか?
先ほどまで重くのしかかっていた暗雲が一気に解き放たれた。よかった!これで当分死ななくてもすむ。昨日までの私の苦しみをどうしてくれるんだ。あれは何だったんだ。こいつ、殴ってやろうか等という思いも一瞬浮かんだが、すべてはほっとした安心感でキャンセルされてしまった。
「大丈夫ですね。それにしても、どうしてかな」
医師はこちらを振り向いてそう告げた。
こっちが聞きたいわい、という言葉をのみこんで、
「いや、よかったです。もうどうなることかと思っていました。ありがとうございます」
と、紳士的に、へりくだって話す。よかった、よかった。
医師がさらに続ける。
「ところで、稲葉さん。ビリルビンが多いのが気になります。肝臓の超音波検査をしましょう」
「へ?!」
6月1日 「胸部X線画像に柵状陰影が!」5
震える手つきでフィルムを見た。それらしいものは確認できなかった。とりあえず、私の目にもわかるような大きなものではないようだ。いちるの望みがでてきた。
受付でフィルムを渡し、再度名前が呼ばれるまで待つことになる。なかなか呼ばれない。ほとんどの人が診察を終わり、閑散とした待合室でいろいろなことを考えて待っていた。午前中だけの年休を出してあったが、この分では昼からになりそうなので、学校に連絡して昼からの年休も頼んだ。2時間後、ようやく私の名前が呼ばれた。
診察室に入ると、医師は私に背を向けたまま、シャーカステンにセットしたX線フィルムを凝視している。丸椅子にすわり、私も医師の背中越しにフィルムを改めて覗く。医師は私の方に向き直り、そのあと、机の上にあった健診結果報告書に眼を通しはじめた。
医師が初めて口をひらいた。
「稲葉さん、ビリルビンが多いですね。」
「そんなことはわかってます。そんなことはどうでもいいんです。そんなことより、X線の柵状陰影は???」と言いたかったが、自分を抑え「そうですね。」と相槌を打った。
「稲葉さん、コレステロールが多いですね。」と再び医師の声。
「そんなことはわかってます。ここ数年といわず、ずっと多いんです。そんなことはどうでもいいんです。そんなことできやしません。今日きたのは柵状陰影なんです。」と言いたかったが、またしても自分を抑え「そうですね、このところずっとC(要精密検査)評価です。」と答えた。
しばしの沈黙が流れる。耐えられなくなり、意を決して聞く。
「先生、あの−、X線の柵状陰影の方は?」
医師は私の声に報告書から視線をはずし、改めてシャーカステンの方を向き、運命の言葉をつぶやいた。
5月31日 「胸部X線画像に柵状陰影が!」4
X線室の前の廊下には、内科以外にも、整形外科や耳鼻咽喉科などの患者が待っていた。受付を済ませ、ソファーに座っていても落ち着かない。まるで死刑執行を受けるような気分である。撮影後の患者が呼ばれ、厚い封筒に入れられたX線フィルムを受け取っている。さすがに、生のままフィルムを手渡すことはしないようだ。ちょっと知識のある人だと、自分の肺に変なものが映っていたらショックだろうからなあ、と変なことに感心していた。
私の名前が呼ばれ、写真乾板の前に立った。左肺の下部を集中して取るというので、正面や側面を併せて3枚撮影した。
撮影後、30分ぐらい廊下で待っていると、再度、私の名前が呼ばれ、フィルムを3枚渡された。封筒に入れずにむきだしであった!!! えー、何という配慮の無さ。これでは見てくれと言わんばかりだ。内科へ行くために再び運命の階段を上る途中で、私は意を決してフィルムを見た。
5月28日 「胸部X線画像に柵状陰影が!」3
翌朝、相変わらず左の脇腹のあたりに鈍痛が走る気がする。健診結果報告書には肺の図があり、スケッチがしてあった。かなり大きな陰影が書いてあったが、あれは実寸大なのだろうか。もしそうなら、おそらくかなり進行しているだろう。どこの病院にしようか。大きな病院は土曜日だからやっていないし。我が家は症状によって医者を選んでいる。とりあえず、直接撮影をするだけなら、いつもいっている近くの町医者で充分なのだが。結局、迷った末、健診結果を送付してきた総合病院に行くことにする。
土曜・日曜と悶々として過ごす。野球をみたり、農耕作業をしていても、つい左手は、左の脇腹を押さえている。去年まではなんともなかったのに。どうして急に・・・。
月曜日の午前中に、学校を休んで病院に行った。地方の病院ではあるが、周辺では唯一の総合病院であり、月曜日ということもあってかなり込んでいた。内科は二階にあったが、患者はほとんど年寄りばかりであった。私だけが場違いのように浮いていた。ネクタイをしているのはそういえば私だけだ。内科の受付に行くとみんな一斉にこちらをみる。「若いのにかわいそう」という哀れみの眼や、「どんな病気かしら」という好奇の眼にさらされているような気がした。受付で健診結果報告書をだし、精密検査にきた旨を話す。呼び出しがあるまで待っているように言われ、ソファーに掛けようと思ったが、根ほり葉ほり老人たちに聞かれそうなので、ちょっと離れた柱の陰に寄り添い、いかにも誰かの付き添いで待っているというようなそぶりをしていた。時間が経つにつれ、私は病院内の風景の中にとけ込み、違和感はなくなった。
待つこと、一時間。受付に呼ばれていくと、紙を渡され「これを持って、一階に行きX線を取ってきて下さい。」という。「そんなことなら、一時間も待たせず、すぐに撮影に行くようにしてくれればいいのに。」と言いたかったが、じっと我慢をして、運命の階段を降りた。
5月27日 「胸部X線画像に柵状陰影が!」2
いつもより早い帰宅に家族のものは驚いたが、何事もないようにふるまった。いつものようにビールを飲みながら食事をしたが、子供たちのいろいろな話も上の空であった。明日は土曜日。精密検査をどこで受けよう。柵状陰影の可能性としてはなにがあるんだろう。保険はいくらだったか。いろいろなことが頭に浮かび、食事も味気ないものであった。
いつものように振る舞ってはいたが、心此処にあらず。全く別の世界にいるようである。食事後に左の肋骨のあたりをさわるとやはり痛い。そういえば、確かに食事後に座っている姿勢によって、そのあたりに鈍痛があった。あばら骨が太ったおなかを圧迫しているのだと思っていたのだが。
「家庭の医学」というかなり厚い本を必死になって読み、胸部X線画像の柵状陰影について調べてみたが、はっきりしたことはわからない。やはり、病院で直接撮影してもらうしかないだろう。こそこそと本を読んでいる私を不審に思った妻に問いつめられ、健診結果報告書を見せた。
妻は、かつて私が体の不調を感じて体温をはかったら39度の熱があることがわかり、そのまま布団でうんうんうなっていたが、別の体温計で測り直したら、前のが壊れていて、37度の間違いであることが判明してからは、ちょっとやそっと私が不調を訴えても取り合わないようになってしまった。確かに私は生まれてこの方入院など一度もしたことがない身体であるのに対して、妻は四度の出産と、いろいろな手術の経験があり、ちょっとやそっとの痛さでは動じないところがある。それ以来、私は身体に関しては大げさに振る舞うと思いこんでいる。
いつも、私がおなかが痛いといっても、あまり真剣に取り合わなかったが、今回はきちんとX線画像に証拠が残っているんだ。どうだ、このお墨付きが目に入らぬか、まいったかと言いたかったが。とても、そんな心の余裕がない。むしろ、なんかの間違いだとか、慰めの言葉を期待している。癌にかかって告知をされない患者が疑心暗鬼になり、何気ない言葉に敏感になるのがわかる。自分では癌だと覚悟はしていても、家族が癌じゃないからと言ってくれることに期待をする気持ちがあるのは確かに実感する。私の場合、告知された方がいいとは思っていたが、実際にこのような状況におかれるとその考えも揺らぐ。
すぐに医者にいって検査して、悪ければ手術してもらえと、妻ははっきりという。このあたりがうじうじしているAB型の私とO型の妻の違いのようだ。おまえは手術の経験があるだろうが、こっちは初めてのことなんだぞと言いたかったが、そんな元気もない。しょんぼり。でてくるのは、何で私がというため息ばかり。もっと、私よりほかにとりつくべき人間がいっぱいいるだろうにという自己中心的考えばかり。
5月26日 「胸部X線画像に柵状陰影が!」1
以下のお話はフィクションではありません。紛れもない真実です。
金曜日に以前受けた健康診断の結果が送付されてきた。例によって「痛くしないでネ」なんて看護婦さんにいっていたときの健康診断の結果である。
いろいろな項目があり、それぞれに正常、注意、要精密検査等の判定がされていた。表側は血液検査などの項目で、総コレステロールや総ビリルビンが要精密検査の判定であった。要するに太りすぎや、肝機能のことだから、こんなものは毎年のことで、精密検査したところでどうしようもないからと全く気にもとめなかった。
裏面は胸部X線と胃部x線の項目があった。前々から、電気の学生のことを思うと胃がしくしく痛み、気になっていたので緊張して見た。入学試験の合否発表を見に行くときのような気分であった。C(要精密検査)の文字が眼に飛び込んできた。
愕然とし、血の気が引いていくのがわかる。父も祖母も癌で亡くしている私としては、いつかくるものと覚悟はしていたが、目の前が真っ暗になった。死ぬこと自体はそれほど怖くはないけれど、まだ、幼い子供たち4人の行く末を案じ、わかれねばならないのかと絶望した。もう一度健診報告書を見直すと、C判定は意外にも胸部X線の方であり、左肺下部に柵状陰影と記載してあった。
結核なら柵状にならないし、コインリージョンでもないので、すくなくとも扁平上皮癌ではないようだ。細胞癌か線癌かな等とは思ったが、仕事をする気にもなれずその日は早めに家路についた。
家にまっすぐ帰ることが出来ず、夏野菜を作っている畑で1時間ぐらいぼんやりと作物を眺めていた。かなり、はっきりした陰影みたいだから、年齢を考えると、この夏を越すことが出来るのだろうか。作っているスイカの収穫まで生きていられるのだろうかと、ぼんやりと考えていた。
5月25日 「大学教育の危機」
昨日の午後9時30分からのNHK特集で、大学における教育の危機について放送があった。主に物理分野に視点をおいて、物理学が嫌われている、あるいは理解されないといった現象に対して、新学習指導要領の問題点、入学試験における受験科目選択制による弊害等が挙げられていた。
最後には教養部を廃止して専門科目に偏重した現在の方向性がおかしいとまでいった意見まで出ていた。教養部からの反撃のように思えた。
現在の教育制度の根幹はゆとりの教育重視であり、中学の一部を高校へ、高校の一部を大学へと積み残してきたのであるから、大学の方が旧態依然とした感覚で教えていたのでは理解できないことが当たり前である。しかも、本来は大学での授業時間の2倍の時間をかけて予習復習を自主的にすることを前提にした授業をしているわけであるから、遊びやバイトにうつつをぬかしている学生が理解することは無理であることは当然である。
与えられている時間には限りがあり、高校から大学に積み残された内容、新しくはいってくる先端的な学問をしっかり整理し、基礎的なもののみの充実をはかり、より専門的な内容は修士課程での完成を待つしかないのではないだろうか。
そういう意味では、高学歴になったのではなく、いわゆる修士としての実力は昔の学士の実力程度だということでしょう。実際、たとえば同じ博士といっても、20年前の博士号取得と現在の博士号取得にかかる労力は雲泥の違いがあるといったら、私より年上の人はうんうんとうなずき、年下の人たちは何をあの馬鹿はまたいっているんだと非難するか、しかとするんでしょうね。
5月24日 「ペリュージャ残留」
セリエAに残留が決まりましたね。中田君もボローニャへの移籍が有力だという記事がインターネットにはでていましたがどうなんでしょうかね。昨日は午前3時頃まで生とビデオで繰り返し見ていました。おかげで今日も眠い。
三男が日曜日にサッカーの試合があり、一日出かけていました。六年生の中に混じってやるので体力的に勝てないから、活躍できないだろうと思っていましたが。2点とったらしい。「見に来なくてもいい」といっていたので見に行きませんでしたが、考えてみれば長男や次男は、バスケットの試合には「見に来るな」といっていたのと比較すると「本当は見に来てほしいのかな」とは思いましたが、野菜作りに忙しくて(松阪君の対マリーンズ戦もあり)行きませんでした。あとで、聞いたら、やっぱりきてほしかったそうです。うーん。この辺が未だ小学生ですね。中学生になると絶対にいやがるんです。
「産官学」の話はまだまだあるのですが、続きを書いていいものか思案中です。
5月21日 「正常・異常」
少しフィクションはお休みにして、軽い話でも一席。
二十余年前、私が名古屋大学の修士課程を修了して、初めて職を得たのがこの岐阜高専であった。それまでの学生生活とは全く違った世界に飛び込んできたわけである。そのとき私が感じたことは、おそらくほとんどの高専新一年生が入学直後に感じたものと同じであったろうと思う。「なんてとこにきてしまったんだ。しまった。」
そこは、純情な若者には極めて過酷な世界であった。聖人君子の集まりばかりであると思いこんでいた私が甘かった。そこは、自分がそれまでに全く経験したことがない世界であった。そこは、私がそれまでの人生で対面してきた大人とは全く異なった人種、私の頭では考えることの出来ない個性的な人たちの集まりであった。私は思った。「ここは、私以外はみんな異常だぞ。」 1年がすぎると私は、おそらく高専の2年生が感じるであろう同じことを考えた。「なんだ、これが正しいんだ。ちっともおかしくなんかない。」 やっと、私は何が正常で何が異常であるかわかるようになったのだ。周りが正常で、私だけが異常だったのだ。そして、3年もすると私は自分も含めた周りがすべて正常に思えるようになった。そして、世間の方が異常に思えるようになった。
ちょっと、軽い話ではなくなってしまったかな。異常(以上)の話はフィクションです。
5月20日 「産官学」7
それから5年の月日が経った。彼からの絵はがきが届いた。住所はブラジル、所属はある企業になっていた。大学を辞めたのだろうか。それとも、籍を残したまま、共同研究で留学しているのだろうか。それにしてもブラジルとは。いつ帰ることになるかわからないと書いてあった。学会などで、彼の専門分野の研究者を捕まえ、詳細を聞いてみるが、どうも同じ大学のものしか知らないようだ。いろいろな噂がとびかい、久しぶりに彼が話題の中心人物となり、盛り上がった。
あとで、いろいろな話を総合してみると、大学には少しいづらい状況になり、彼の研究者としての能力を正当に評価し、彼のよき理解者である教授が進言して、ブラジルへ行かせたようだが、ことの真相は今でも分からない。そして、いつしか彼の存在は忘れ去られた。
5月19日 「産官学」6
「今の若者の眼はほとんどみんな死んでいる。君もだ。若いうちはいつもぎらぎらとしていなければならない。」「その対象が国家や権力でもいい。あるいは研究でもいい。既成の概念にとらわれず、絶えず批判的な眼を向けて、眼をぎらつかせて、詳細に見続けろ。そこに、真実が見えるはずだ。」話が進むにつれ、昔のことが蘇り、最後の方は完全に彼の独壇場であった。
懇親会の会場から宿泊ホテルまでのタクシーのなかで、彼は自嘲気味につぶやいた。「俺は、気に入らなければ、今でもゲバるよ」ゲバるというのは、学生運動時代の特有の表現でドイツ語のGewaltからきている。「だから、俺は万年助教授さ」 彼は博士号取得後に助教授に昇格していた。助教授までの人事は大学にもよるだろうが、おおくは講座の教授が認めれば、他からクレームがつくことはほとんどない。しかし、教授昇格については教授会の承認などが必要であり、あるいは移入教授ということも考えられ、彼は自分の将来をまたしても危惧していたのだろう。そんなに心配ならちょっと抑えてゲバらなきゃいいのにとは思うが。「いいさ。俺には企業がついている。日本でだめなら外国だ。」
5月18日 「産官学」5
彼はいろいろな話を私にした。今から思えば、何故、私にそんな話をしたのかよくわからない。酒に酔っていたのか。周りに話を出来る仲間がいなかったのか。欲求不満がたまっていたのか。ともかく、一方的に、とりとめもなくいろんな話をしてきた。全学連のこと、民青のこと。革マル派のこと。安田講堂のこと。博士課程在学時の大学側との衝突のこと。・・・
脈絡のない話から推測できるのは、おそらく、学生運動の頃は「自分は若かった」ということだろうか。当時はやっていた「いちご白書をもう一度」というフォークソングのなかの「もー若くないさと、君に言い訳した・・・」という一節を思い出す。
5月17日 「産官学」4
その後、彼は研究を中心に据えた生活を送りだした。教授の理解もあり、研究は大いに進展した。当時はその大学には博士号の審査権がなく、母校にはとても学位審査に出せるはずもない。最終的には彼の仕事を客観的に評価してくれる日本のその分野の大御所ともいいえる人物のもとで学位を授与されることになる。その大御所も当時はかなり異端視されていた。私と彼とは専門が全く違い、学会でも顔を会わせることはほとんどなかったが、たまたま、ある研究会に呼ばれて全く別の観点から講演する機会があり、研究会の若干の質疑応答のあと、懇親会で年齢を超えていろいろな話をした。
5月14日 「産官学」3
勤務地は遠く離れるが、世間にはよく知られた大学からの公募であった。彼は若干の迷いもあったが応募し、採用が決まった。配属されたのはかなり有名な研究室であった。企業と積極的に共同研究し、数々の研究成果を挙げているという点で。彼は転んだ。彼とともに戦い、そして、案の定、大学に残れなかった同志たちは口々に彼をののしり、非難した。しかし、下火になった学生運動の炎では、彼をそれ以上追求し総括することは出来なかった。また、彼に痛烈に批判されてきた大学側も、彼がいなくなることに安堵しながらも、彼の一転した行動に怒り、絶対に博士号を出してはいけないという意見が渦巻いた。
5月13日 「産官学」2
そのころ、大学はオーバドクターの問題を抱えていた。博士課程を卒業しても大学の助手や講師に全員がなれるわけではなく、塾や学校の非常勤講師などで生活費を稼ぎ、大学などのポストがあくのを待っていることになる。オーバドクターの中には結婚しているケースもあり、奥さんが働いて、旦那さんは子守や料理をするという現代でもありそうな図式がその当時からあった。
彼もご多分に漏れず、大学の教授陣の非難をしながらも、就職という現実に直面せざるを得ない状況になってきた。学生運動も下火になり、博士課程も終わりが近づくにつれ、「このままでは、絶対に大学に残れない」、そんな思いが頭をかすめるようになった。 ある日、大学の掲示板に、ある大学からの助手の教官公募が載った。
裏日記が表舞台に出されそうで、ちょっと書きづらい状況になってきました。
表に移して堂々と書くか、掲載を打ち切るか、さらにアングラに潜るか。
5月12日 「産官学」
いま、大学を始めとした研究者の中では「産官学」が合い言葉になっており、このことに対して疑念を抱く人は誰もいないと思います。これからお話しするのは、全くのフィクションです。
私が高校生の時、彼はある大学の博士課程の学生であった。学園紛争の最も激しい時期であり、東京大学の入学試験が中止になったことは社会的にも大きな話題になった。医学部のインターン制度に端を発した学生運動はその後拡大し、工学部等においては、企業から金をもらい企業の研究をしている教官は、学生たちの格好のやり玉に挙がった。いやしくも「学問の府」である大学が、公害問題などで「悪の権化」である企業と結びつき、国民の血と汗と涙の結晶である税金を使い、国民の公僕である公務員が、一企業のために時間とお金を費やすことは社会的な不正行為に等しいというわけだ。
博士課程の学生であった彼は、学生運動の先頭に立ち、所属学科の教授や助教授を教室の前に立たせ、アジ演説を行い、教官を糾弾・非難し、総括した。
時間がきましたので、今日はここまでにします。この話はフィクションです。かなりやばい話になりそうです。噂になる前にやめないと首になるかな。でも単なるフィクションだから。
5月11日 「科研費」
文部省の科学研究費の採択が発表された。継続も含めて14件の採択だそうだが、その昔はせいぜい2,3件であった。研究者仲間では密かにささやかれているのだが、現在の研究費はかなりバブルな状態になっている。産官学の共同研究であればかなり認められ、昔では信じられないような補助が出ている。東北大学の羽根君とはこの前の応物学会でも話したのだが、今、このバブルにのって新しい装置を入れるとその維持費が莫大なものに付き、バブルがはじけたときは大変な状況になると危惧していた。私のところはそれ程維持費がかかるものはないからいいけど。しかし、ヘリカドレーザが壊れたら100万以上修理にかかるからなあ。保証期間のうちにデータを取れるだけ取ってしまおう。
5月10日 「お役所仕事」
「前例がないから」この言葉をこの高専で何度聞いたことだろう。一番最初に抵抗したのは、学会誌の投稿料と別刷り代金であった。「前例がないから払えない」「研究は個人の趣味だから」「個人の目的のために校費は払えない」。今から思うと、信じられない世界がこの岐阜高専の実状でした。「前例を作るために」私とK先生が決起し、二代目の校長先生に直訴したのが20年以上前の話です。古屋先生がただちに会計と掛け合い、それ以後、「前例」になりました。私にとっては「直訴すること」が解決の一番の早道であり、このことこそが「いい前例」になったと思っています。
いまは、何の抵抗もなく別刷り代金を校費で請求されている先生がほとんどだと思いますが、当時は大変な時代でした。
5月7日 「原日出子さん」
「本日は晴天なり」は第二次世界大戦末期の時代のNHKの女子アナウンサーの話なのだが、放映されたのが今から20年ぐらい前のことで、原日出子さんもこのときにデビューしたわけだから、みんな若い。高専生はこの番組が放送された頃は生きてはいなかっただろうから。津川雅彦や宮本信子、木の美ナナまででていました。いやー、懐かしい。原日出子さんは若すぎて、今の方が我々には素敵だ。昨日とはうってかわって、軟弱な話題になってしまった。しかし、原日出子さんだけ”さんづけ”で、あとは呼び捨てというのも変かな。
5月6日 「大学を問う」
産経新聞社会部が取材し、新潮文庫の文庫版にまとめた本に、おもしろい箇所があるので紹介します。(著作権にふれるのかな?出典を明記しているからいいとは思うけど、やばそうなら問題がおおきくならないうちにアドバイスをください)
息子が東大受験校の開成高校(今年で14年連続東大合格者トップ)と早稲田大学に無試験で入れる早稲田大学高等学院の両方に受かったとき、面白い現象が起きる。それまで「勉強しろ」一点張りの母親が「早稲田でいい」と言い、クールだった父親が、俄然開成を主張し始めるというのだ。父親は息子の将来に野望を抱き、母親は開成に行って三年間猛勉強しても早大にさえ入れないことがあるのを危惧するからだという。男女の欲望の深浅、あるいは子供に接する姿勢の硬軟の深層をよく示すエピソードというわけだ。
この本はそのあと早稲田大学の例の政経学部の話になるのだが、上記の話は早稲田の話題にもっていくためにとりあげているようだ。受験生を抱える我が身とすればこの話はよくわかる。
少し気になったのは、この本では「早稲田でいい」とか「早稲田にさえ入れない」という表現があることだ。その後の話の展開も例の政経学部の話になるし、本のタイトルからすれば仕方がないことかもしれないが、やり玉に挙がった大学の関係者はいやな思いをしているのでしょうね。そういえばうちの長男も早稲田の理工を蹴って駿台へ進学(?)してしまった。どうなることやら。
4月28日 「多目的ホール(旧視聴覚教室)」
壁面や床面を張り替え、座席も新しい大学の会議場によくある回転式の簡易机をセットできるタイプになりました。机を回転させてセットしようと試みましたが、残念ながら私の座った座席ではセットできませんでした。おなかがつかえてしまって、所定の位置までいきませんでした(ショック)。隣の先生に笑われてしまいました。体育のY先生なんか絶対に無理だと思う。
4月27日 「こいつ」
先日、ある会議でとてもいやな思いをしました。あるお方が学生を「こいつは・・・」という表現を使われました。あいつでも、ドイツでもいいんですけど、何か学生を「もの」として扱っているようでとても耳障りに感じました。「あいつとわたし」なんて石坂洋次郎の小説がありましたが、うら若い乙女ならいざしらず、いい加減年を取った人がいうと、言葉のなかに憎しみが入っているようでとても残念でした。
今日の文章はいずれ当局の指導が入り、いずれ削除されることになるんではないかと思いますが、あまり腹が立ったので書きました。人のことを言えたがらではないんですけどね。
4月26日 「よみがえる金狼」
なつかしいタイトルでした。今から20年以上も前に松田優作の主演で映画化された大藪春彦の小説ですね。ハードボイルドの代表的な作品で記憶によくあります。松田優作は「家族ゲーム」の家庭教師役の方が私は好きでした。
懐かしくてつい見てしまいましたが、同名ですが全く別のテレビドラマと思った方がいいですね。まあ、それはそれで楽しめればいいわけでしょうから。
4月23日 「中日連勝街道」について
本当に今年の中日はどうなっているんでしょうね。確かに昨年、一昨年と貯金しておいた運を一気におろし、来年や再来年の分まで借りてきて投資しているかのような最近の試合ぶりです。それまで全くテレビで見ていなかったが、新記録がかかった日の放送をみていたら負け。二日あとの川上が投げていたヤクルト戦も途中逆転してこれはいいぞと思い見始めたら逆転負け。昨日は前半で5点入れられこりゃだめだと思い見るのをやめたら、なんと逆転勝ち(しかも相手の暴投で)していることを朝のニュースで知った。どうも、あまり熱を入れずにテレビも見ない方がいい結果のようだ。
というわけで「よみがえる金狼(銀狼だったっけ?)」の話は別の機会に。
4月22日 「眠い」わけ
しっかりと南こうせつの「神田川」のMDタイマーで午前3時に目覚めました。いやー。日本も強くなったものです(前半は)。後半はベンチの迷いもあり防戦一方で、ロスタイムではドーハの再現かと冷や冷やしてましたが、ふんばりましたね。頼もしい限りです。決勝戦も絶対に見ます。世間ではあまり騒ぎになっていないけど、結構これってすごいことなんですけどね。
インターネットに「サッカー日本代表を応援する」ページがあり、そこには世界各国に在住している日本人からいろんなチャットがはいり、戦術や選手の選び方などいろんな議論がなされている。電気にも卒業生、在校生および教官とのチャットルームをつくると、進学や就職に関するいろいろな情報があつまっていいかもしれませんね。ただ、収拾がつかなくなりそうで不安ですが。試験的に秘密裏に深く潜行してやってみてもいいかもしれません。
明日は話題を変えて「よみがえる金狼」についてでも書こうかと思っています。
4月21日 「ホームページ」の続き
昨年度にある学科が猛烈に閲覧が増えてきました。その学科の学生から聞いた話ではK先生が授業中に、電気の閲覧数に追いつくために家のパソコンでどんどん見るように指示をだしたという話が聞こえてきた。そんなことまで気にしなくても何も心配のない学科なのにね。それにしても電気の表紙はすこし雑然としているので、福岡先生に頼んで思い切ったものにしてもらえるように依頼している。2週間後ぐらいにはお披露目できると思います。
明日の明け方にはいよいよワールドユースの準決勝が始まる。今までも見ていたのだから、絶対にナマでみます。午前3時からだが、仮眠をとるか、徹夜をするか微妙なところだ。明日はまた眠い一日になりそう。岐阜大学の夜間主コースの授業がそういえばあった。夜までもつのかな。
4月20日 「G.E.社の戦略とは」
次世代のCTスキャナーとして4倍の画像エリアをもつ装置を各社が開発競争し、G.E.は医者の意見を重視し、画質よりも画像処理速度にポイントを絞り実用化を諮り、東芝はシャッタースピードを0.5秒にすることで世界最先端の装置の開発を優先した。その結果、G.E.社のCTスキャナーは東芝に比べ半年早く実用化され、市場を席巻したという話でした。G.E.のウェルチ会長は他社に先駆けて商品を出すことと、他社よりもいいものを出すこととどちらが大事かといえば、経営戦略上は前者の方がいい結果を生むことの方が遥かに多い、と述べていました。番組では東芝がこの一件以来、早期開発を最重点にする体勢を組むために組織改編をしたと紹介していました。
研究の世界でも、人より早く発表することと、しっかりしたまとまった結果を得てからいい論文を書くことは、なかなか両立できるものではない。ただ、本当にこれはすばらしい仕事だと思えば、データが少なくてもまず、発表してしまうでしょうね。
番組ではウェルチ会長がアフターサービス、メンテナンスを有料で迅速に見る体勢を実践している様子を紹介していました。いわゆる完全分業制ですね。研究の世界でも欧米では、テーマを出す人、実践計画を出す人、実験をする人、論文を書く人がそれぞれ全く別々になっている場合が多い。確かに、データの整理の図や論文を専門に書いてくれる人がいることは心強いし能率もいいでしょう。そういえば、最近の英語の論文はTex形式で送ることを要求されることが多く、私も一時期Texをマスターしようとしたがなかなか覚えられずにこまっていた。最近ワードで書いた文章をTexに変換するソフトが販売されていることを知り、これを購入した。ワードで作った文章をソフトで変換してTexで学会誌に送るのだが、考えてみれば変な話ですね。でも、このようなソフト(英語版)が販売されているということは、欧米にも私と同じように困っている人がいるということですね。
4月19日 「眠い」訳は
金曜日のバリウムの晩は寮の宿直で雄志寮にとまり、土曜日の朝に家に帰り、ほったらかしにしてあった畑の大根を抜き、石灰と肥料をまいて耕し畝をつくりマルチを一面に敷き詰めました。昼飯も食べずに農耕作業をやり、夕暮れにぐったりとして家につき、ビールを浴びるほと飲みました。何しろ金曜日は寮でしたのでさすがに飲むわけにはいかなかったので、そのリバウンドで飲みまくりました。日曜日は朝から三男とのつきあいで三国志を久しぶりにはじめ、午後からは長女の部活の市大会への送り迎えでつぶれ、またCDを借りにいきました。「かぐや姫」と「吉田拓朗」を聞いてなんやかやと午前3時まで起きており、いよいよ待望のワールドユースサッカーが始まりました。日本のすばらしい試合に眠気も吹っ飛び結局寝たのは午前5時すぎ、夜も白々と明け始めていました。6時半まで寝て、7時には家をでましたが、眠い眠い。授業や会議の合間をぬって少し仮眠を取りましたが、22日の午前3時からはまた準決勝が始まる。きっとこれも見ることになると思う。
4月16日 「バリウム」つづき
前々から胃の墳門部にちょっとした痛みを感じていたので、かなりすすんでいるのかもしれない。バリウムを飲む前に朝食は抜いてきましたかときかれ「ハイ!」と応えたが、昨夜はユースサッカーを午前3時頃まで見ていてその間ビールをのんでいたんだった。確かに朝飯は抜いたけど。
血液検査の注射をしようとする看護婦さんに「痛くしないでね!」といったらえらく受けてしまった。いつでもどこでも注射されるときには相手が女性であれば必ず言うんですけどね。バリウムを飲んだあとは下剤を飲むんですけど、授業がそのあとあったのでもつかどうか心配だった。学生にはもよおしたらトイレへ直行すると宣言しておいたが、なんとかもちこたえることができた。
検査を待っている間事務官と話をしていたら「昨年電気にきたT先生は変わってますね」といわれてしまった。変わっているのは今に始まったことではないので「何かおもしろいことをやらかしましたか」と聞いたら、朝、駐車場で車を降りたら、必ず車の回りを3周して車の状況を確かめるそうだ。そういえば、旅行に行ったときもお寺にいくたびに賽銭を必ず入れていた。全国のお寺をまわっているそうだ。
4月15日 「県立図書館」にて
県立図書館に本を返しにいった。たしか借りたのが今年の1月だったような記憶がある。いつも、請求があってから返すようになってしまった。学生はよく嫌みをいわれるらしいが、私は常習犯だが何もいわれたことがない。そりゃ、50近いおじさんが背広にネクタイの服装で、しかも、先手を打って丁寧にわびの一つも入れれば30ぐらいまでの女性ならとても嫌みなどいえるはずもないといままで安心していました。が、今回は終わったあと聞こえるか聞こえないかぐらいのか細い声で「今度から気をつけて下さいね」なんていわれてしまった。いつも調子に乗ってまた新しい本を借りるのだが、今回はやめにした。家の近くに岐阜県が鳴り物入りで作ったテクノプラザがあり、そこの図書館は科学技術専門で本も圧倒的に多い。インターネットも無料でできる。特許検索もできる。私が委員を兼任している岐阜県研究開発財団も中に入っている。ということで各務原の科学技術図書館に出入りすることにしました。皆さんも一度どうですか。
4月14日 NHKの朝の連続ドラマ「すずらん」について
前回の「やんちゃくれ」は地元出身のヒロインということで見ていましたが、ドラマとしてはあまりいい出来ではなかったように思う。もう題名も忘れてしまったが、灘の造り酒屋の話と一緒で、主人公の女性の数奇な一生をドラマにしているのだと思うが、実際にあったであろうどろどろとしたものを、適当に美化して、言い訳・繕いをしているところが随所に見え、閉口していた。
新しく始まった「すずらん」は最近のNHKではめずらしいタイプのようだ。一時代前の「おしん」を彷彿させるものがある。おそらく、生ぬるい体質に慣れてしまっている世の中の奥様族には衝撃的なものに映り、朝から目を赤くして洗濯物を干したり、家の掃除をする姿が思い浮かぶ。私も、このドラマには泣かされそうな気がする。しかしながら、私どもの世代にはこのドラマは辛すぎて、見るに忍びないものがある。妻も同じように感じているようだ。今回の朝ドラは見ないことにしました。授業に目を赤くしていくのも辛いですからね。
4月12日 「設計実習」
今年のロボコンは所、熊崎、羽渕の三人体勢が組まれるようだ。なかなか強力なチームができそうである。電気工学科の四年生が準備しているが、出場チームに選ばれるといいですね。私はロボ研の方になると思います。
今年の電気設計実習では、私の所はステレオを作ることになりました。前々から考えていたのですが、アンプやプリアンプはもちろんスピーカも箱から自作して世界に誇れる音響システムを作ろうと思っています。普通のシステムではおもしろくないのでマルチチャンネルアンプを作り、スピーカシステムも12chぐらい用意して、コンピュータで制御して立体音響空間を作り上げようかと計画しています。ついでに、前からやっている万華鏡とレーザをつかった、超非現実的光音響空間を実現したいと思っています。うまくいったら高専祭の出し物にして、校長賞をねらいたいものです。
他には、赤緑青のレーザをつかった白色レーザの製作。光造形法で1mm以下の世界最小迷路をつくり、バクテリアにこの迷路を解かせる。なんてことも考えているのですが、人数も足りないので、今年は音響システムに絞ろうと思っています。いい音響システムができたら、我が家にもらおうなんてね・・・。(冗談です。)
4月9日 「薄墨桜等」
K先生から急に電話があり、薄墨桜を見に行くことになりました。F先生と一緒にいきましたが、もう葉桜になりかけていました。F先生にとっては3年がK先生、4・5年が私の担任であり、思いもかけない組み合わせで連れ出されて大変だったかな。運転手(K先生)には悪いけれどもいい気持ちで帰ってきました。
話は変わりますが、今日の新聞に麻雀の名前を変更して中国式に麻将という呼び名でファミリーゲームとして広報しよういう試みがあることを知りました。麻雀のプロの井口氏(東大出身)が中心になった活動だそうです。確かに麻雀は賭事のイメージが強すぎるため、最近では若い人に人気がなくなっていましたが、電動麻雀が広く普及するにつれファミリーゲームとして認知されるようになると思います。イカサマがやりにくいという点で電動麻雀の出現は大きいと思います。なんといってもゲームとしてはこれほどおもしろいものはないとおもいます。我が家でも一時期中古の麻雀電動卓を買おうとして、妻の顰蹙をかったくらいですから。羽渕先生の日記に書いてありましたが、仲先生の送別旅行では私との対戦を楽しみにされていたようですね。残念ながら早々に寝込んでしまった方がおり、メンツがそろわなかったので残念ながら私の腕をお見せすることができませんでした。メンバーをそろえるのも大変です。これからは麻雀ができるかどうかを採用時に確かめることにするかな。(冗談です。)
4月7日
昨日に引き続き午前2時まで起きていた。電気磁気学の問題を解き始めたら病みつきになり、熱中していました。
昔から寝るのは遅い方でしたが、昨年の十月頃からロボコンの関係で特にひどくなり、午前2時や3時がそれ程苦にならないようになってしまったようです。年を取ったのでどんなに夜遅くても朝は5時頃には目が覚めてしまう。慢性的な睡眠不足です。四当五落なんて言葉が昔ありましたが、今はどうなんですかね。我が家の受験生たちには全く無縁の言葉です。しっかり8時間の睡眠をとっているようだ。
起きているときはたいてい酒を飲んでいるが、午前3時まで飲んで7時に出勤では、飲酒運転ですね。
4月6日
カメルーンにやられましたね。アジア大会のビデオを見ているかのような試合でした。あの時に露呈した欠点を全く修正していませんでしたね。暑さ対策も全く同じです。FWには清水商業の佐野を入れた方がよかったりして。次のアメリカ戦に期待しましょう。実は、三男が地元のサッカースクールに入っているんです。
明日は教官の歓送迎会があります。電気工学科ではN先生とF先生が対象です。どうなりますことやら。明後日は入学式があるので、あまり飲めないし。
もう四分の一世紀も前になってしまいましたが、私が新任教官としてきたときの二次会は護国神社で夜桜見物をしました。どさくさに紛れて他の団体に潜り込み、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎをしたことを覚えています。あのとき、新人は5人いたが、今では私とM.K.先生だけになってしまった。
4月5日
中平君も見つけたそうです。31期生はいよいよ就職あるいは大学院への進学の年になりましたね。できることなら進学してほしいと思います。特に31期生はドクターまでいって大学に残ったり、高専の教官への道を選んでくれると私としては大変にうれしい。
週末は「ザ・コンビニ」にはまってしまいました。娘が借りてきたゲームで、暇つぶしにはじめたら、けっこうおもしろくなり、夜中もそのままやらせていたら、朝おきたら倒産してゲームオーバになっていたり、地価がものすごく高くなり、新規に店を開くことができなくなるなどバブル時代そのものの状況になったりしてしまいました。メモリが14ブロック必要なので、三国志やコンビネーション・サッカーを消してしまいました。
今日は、ワールドユースサッカーが夜11時55分から始まる。2時まで全部見るつもりです。多趣味なのも疲れます。
4月1日
事務に新しい女性が入った。20才だそうだ。若いナー。電気の独身グループにはがんばってもらいたい。他の先生は足を引っ張らず応援していただけるといいんですがね。電気も独身が増えてきましたね。定年離婚なんてのもあるし、純正の離婚も考えられるし、最近では子供のおかげで何とか離婚されずにすんでいるとおもわれる夫婦もあるみたいだし、誰とはいいませんが・・・私のことでした。
名古屋大学に進学した村橋君がこのページを発見したそうだ。それも正規のリンクを追わずに、思いがけない方法でアクセスしたようだ。そういえば中平君のページはリンクだけ消してアドレスはそのままだったので、卒業後もヒット数が増え続けたそうです。とりあえずアドレスだけ変えたけど未だ見えるのかな。何か消すのは忍びなくてファイル名だけかえて残しました。そういえば、あのS研にあったW君の裏リンクは今はどうなっているんだろう。考えてみれば我々は直接ファイルをみれるんだから、裏も表もないような気がする。自分の所のフォルダにもパスワードをつけないとあぶないかな。
このページもいつまで維持できることやら。
3月31日
仲先生が退官され新任の先生が着任する。未だ辞令が出てないのにここに書くのはけしからんと新しい主任のK先生からおしかりを被りそうだが、この文章がアップロードされるのは明日だからお許し願えるんではないだろうか。
新しい先生は福岡大輔君といって、私が4,5年の担任をしたときの卒業生です。岐阜大学に編入学したあと修士課程を1年で跳び級して博士課程の1年(明日から社会人ドクターの2年)に在学しています。専門は医用画像処理。佐井先生とほとんど同じ分野です。学位取得後はヴァーチャルリアリティ関係に方向転換をしてもらうつもりです。卒業生ではありますが、純然たる教官公募の中から選ばれた逸材です。教官選考の経緯は・・・、さすがにそこまでは書けません。
3月30日
記念すべき第一閲覧者は東北大学の大野君でした。(実名はまずかったかな)。発見された方はメール下さい。賞品は・・・何も出ません。本ページ上でお名前の掲載にかえさせていただくということで・・・。
FF[のオメガウェポンを必死の思いで倒しました。HPは100万位あるんじゃないですかね。メンバーはスコール、アーヴァイン、キスティスで全員レベル100、HP9999です。スコールとアーヴァインの特殊技の連発で攻めまくりました。とくにスコールはエンドオブハートで14万のダメージを二回あたえてもう少しで勝てそうな気がしたところで、大ダメージを受け、全員HPが零になり全滅かという場面でフェニックスに助けられました。回復はラストエリクサーばかりをつかい、英雄の薬も役に立ちました。さすがにもう二度と戦う気にはなれませんね。サボテンダーとエデンもなかなかおもしろかった。次男と二人で情報を交換してやっていましたが、次男は勉強は大丈夫なんだろうか。
まずは、無難なゲームの話から始めました。
よくここがおわかりになりましたね。たいしたことないですか。もう2,3回ぐるぐるまわすべきでしたか。カウント数が10を越えたら、そろそろアップします。
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