豊橋市公会堂

  豊橋市八町通22の2  昭和6年(1931)8月完工
  鉄筋コンクリート造(屋根は鉄骨トラス造)3階建
  設計:中村與資平  施工:中村組
  国登録文化財

  

建設までのいきさつ

大正時代、大正デモクラシーの影響で、豊橋でも集会が活発に開かれるようになりました。 大正から昭和の初めにかけては、全国各地に大きな集会施設ができてきましたが、豊橋には適当な 施設がないため、呉服町にあった東雲座などの劇場が使用されていました。同じ三河地方の岡崎市で はすでに大正2年(1913)に額田郡公会堂(現岡崎市郷土館、国指定重要文化財)が建てられてい ました。公会堂の建設は豊橋市民の念願でした。

ちょうどそのころ、大正9年(1920)豊橋電気株式会社が名古屋電灯株式会社(現在の中部電力) に身売りされる話がでました。一時は不穏な空気となりましたが、「電気料金を名古屋より1割 安くする」などのほか「名古屋電灯は2階建ての公会堂を寄付する」との妥協案でひとまず解決 しました。

しかし、大正11年9月、流血の惨事になった市議会騒擾事件が起きると公会堂建設の計画は 一時とん挫しました。その後、ようやく昭和3年(1928)3月の市議会で「大典奉祝記念として 公会堂を建設する」との議決で建設が決定しました。そして市政施行25周年を迎える昭和6年 (1931)に公会堂は完成しました。当時の金額で17万円余りがかかりました。

建設から現在まで

豊橋市公会堂は豊橋の歴史を静かに見守ってきた建物です。

ロサンゼルスオリンピック背泳で優勝した清川清二選手の激励会や祝賀会を皮切りに、 昭和7(1932)年の全国毛筆共進会など数々の催しが開かれました。昭和11年の天皇の 旅行では公会堂に立ち寄り、貴賓室で休憩をしました。戦争末期には市役所の機能が移されました。 戦後、昭和23年(1948)から27年(1952)までは豊橋中央公民館として、昭和44年(1969) から10年間は市民窓口センターに使用されました。また、講堂客席部を中心として再三にわたる 改修を受けてきました。しかし、外観は建設当初の姿をよく伝えており、ほとんどのドア、 窓サッシなど建具は当時のものですし、戦争中に供出された金物も一部復元され、 正面外観を飾っています。

平成10年9月2日には国登録文化財に指定されました。現在、改修工事が平成13年1月まで おこなわれる予定です。

立地

豊橋市公会堂は、前年に催された産業博覧会の会場跡地 を利用して建てられました。戦前の路面電車は駅前方面から大手通を抜け公会堂の正面で向きを 変えて、八町通(現在の国道1号線)を東田遊郭まで走っていました。つまり、八町通に面した 広場に建つこの建物は、吉田城の大手筋の軸線を受け止めて、吉田城に代わる街の新しい シンボルとして建てられたのです。

構成

正面にある大階段を上ると、玄関、ロビーへと続き、そのまま大講堂に入ることができます。 つまり、2階が大講堂のあるメインフロアーとなります。大講堂の客室は751席 (当初は1005席)あります。両袖の階段を上がると3階になり、2階席、貴賓室、 応接間があります。1階には事務室、集会室、食堂などがありましたが、現在はさまざまに 仕切られています。

意匠

豊橋公会堂の意匠は様式的にはロマネスク様式といわれています。 しかし、むしろさまざまな様式を織り交ぜた折衷式といえるものです。

全体としては、質素なロマネスクの城郭を感じさせる外観、壁面頂部の小アーチが連なる ロンバルジアバンド、半円アーチの付いた列柱や窓、そして玄関ホールの天井の交差ボールト などからロマネスク様式といえます。

また、両脇にある階段室塔屋の、垂直にそびえる壁の中央に半円ドームを乗せる構成は、 当時流行したセセッションの影響が感じられます(オーストリアの分離派館(1898)に似ています)。 さらに、随所に用いられているステンドグラスやタイルにもセセッションのデザインを見る ことができます。その他、半円形ドームはモザイクタイルで幾何学的に波形を描き出していて、 中近東の建物を思わせます。

意匠の背後にあるもの

豊橋市公会堂の意匠には、軍都豊橋としての面と設計者中村與資平の中近東好みの明るさ が表現されています。

半円形ドームの脇にある4羽の鷲、正面の大階段など、この建物には権威的な意匠が見られます。 戦前、豊橋が軍都であり、当時、戦争への道を突き進んでいたこと、そしてこの建物が大典記念 として建てられたことなどから、その意匠が読みとれるような気がします。吉田城跡を本営として いた歩兵第18連隊は出征の時、この公会堂の前を行進して戦地へ行ったのでしょう。

ほぼ同時期に建てられた名古屋市公会堂(昭和5年(1930)、設計:名古屋市建築課、 顧問:武田五一、佐野利器、鈴木禎次など)と比べると設計の違いがわかりおもしろいです。

中村與資平(よしへい)  1880〜1963

設計者の中村與資平は明治38年(1905)、東京帝国大学を卒業した後、 辰野金吾の事務所に入りました。出世作である朝鮮銀行本店(現在の韓国銀行)を設計し、 現場管理のため大陸に渡りました。それが完成すると独立。ソウルに事務所を開き、 朝鮮で設計活動をおこないました。大正12年(1923)に大陸から帰国し、東京で事務所を 開きました。

中村はまず辰野のところで様式建築を学びました。そして、朝鮮にいる時に、第一世界大戦で ロシアに捕まりシベリアから脱走してきたドイツ軍の若い建築家、アントン・フェラーから モダン建築を覚えました。そのため、中村は様式建築とモダンデザインの2つができる幅の 広い建築家になれたのです。

中村は 大陸から帰国後、豊橋のほかに浜松、静岡の公会堂を手掛けています。 しかし、それらはすでに解体され、現在は豊橋公会堂のみが残されています。


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