ハリストス正教会聖堂(正使徒福音者馬太(マトフェイ)聖堂)

豊橋市八町通3丁目15  大正2年(1913)
木造平屋鐘塔付き
設計:河村伊蔵 施工:中神某
県有形文化財

ハリストス正教会と豊橋での布教

ハリストス正教会は東方正教会(ギリシア正教、ロシア聖教)に属し、総本山は東京神田の ニコライ堂です(ハリストスとはギリシア語でキリストのことです)。

パレスチナで生まれたキリスト教は、ギリシャに伝わってギリシャ正教となり、 やがて東方ロシアの広大な地域へと受け継がれてロシア正教となりました。ロシア正教の日本への 伝道は,文久元年(1861)ロシア領事館の宣教師としてニコライが函館にやってきた時に始まります。 慶応4年(1868)沢辺琢磨(土佐藩士)が日本人として初めてニコライから洗礼を受け、 以来布教は函館を起点にして次第に全国に広まっていきました。明治24年(1891)、早くも 駿河台に東京復活大聖堂(ニコライ堂)を完成させた正教会は、ローマ・カトリック教会や プロテスタントをしのぐ布教活動をおこないました。

豊橋への布教は明治8年(1875)から始まります。この年、平山重三郎が布教活動が盛んで あった岡崎でロシア聖教に初めて触れ、翌年には平山重三郎、長男の文太郎、土屋利三の 3人が最初の洗礼を受けました。これをきっかけに受洗者は年ごとに増えていきました。 信者の集まる会堂は最初は札木町の平山重三郎の家でしたが、明治12年(1879)に中八町に 木造2階建ての会堂が建てられました。当初は布教に対する官憲の圧力などがあり、 特に日露戦争の時にはかなりの迫害を受けたそうです。しかし、この会堂は、豊橋に収容された 数百人のロシア人捕虜を日曜ごとに参堂、祈祷させるという貴重な役割を果たしました。

建設までのいきさつ

現在の聖堂は大正2年(1913)に初代神父マトフェイ影田叙聖の司祭叙任35周年を記念して 建てられたものです。したがって、この聖堂は正式には「正使徒福音者馬太(マトフェイ) (マトフェイとはロシア語でマタイのこと)聖堂」と呼びます。

影田神父は、キリスト教がまだ禁止されていた明治初期に函館でニコライによって洗礼を 受けたギリシア正教伝道の先駆者です。邪教を信じたとして半年間、牢獄に入れられたことも ありました。神父は明治45年(1912)2月に35年祝典を受けましたが、その2ヶ月後に 他界しました。しかし、聖堂は計画通り神父の洗礼名をとって名付けられました。

日露戦争、第一次世界大戦、ロシア革命と続くロシア本国の混乱は日本のハリストス正教会に 大きく影響を与えました。この建物は、そんな日本のハリストス正教会の混乱期に建てられました。 敷地を購入したのは明治35年(1902)でしたが、建物の工事が始まったのは大正2年(1913) 1月で、12月には建物本体がほぼできあがりました。しかし、ハリストス正教会の聖堂に とって重要なのは、聖堂の至聖所(内陣)と聖所(儀式所)を区切る聖障(イコノスタス) と塔に取り付ける鐘です。鐘は翌年にサハリンの正教会から譲られたものが届きましたが、 ロシア本国に注文した聖障は第一次世界大戦に巻き込まれて黒海のオデッサに足止めされて しまいました。そこで仮の聖障を造って大正4年(1915)に成堂式をおこないました。 現在の聖障は昭和2年(1926)に設置しました。

敷地購入から成堂式まで13年の年月がかかりました。この間、正教会本部の財政は苦しく、 豊橋正教会の教徒130〜150人は、協力しあって敷地を購入しました。そして、 労働奉仕をしながら1万数千円という巨額の工費を負担し、独力で聖堂を建設したのです。

建設から現在まで

聖堂の鐘は第二次世界大戦中に供出させられ、新しい鐘が吊されたのは昭和31年(1956)です。 屋根がブリキ板から銅板に吹き替えられて現在の姿になったのは昭和35年(1960)のことです。

ドームの中には柱が一本も入っていませんが、昭和20年(1945)の三河地震にもびくとも しなかったといいます。幸い豊橋正教会堂は空襲の戦火をのがれたので、教会の記録や貴重な 文献、イコン(聖像画)、帝政ロシア時代に渡来した多くの美術工芸品が完全な形で保存されて います。昭和59年(1984)2月27日、県指定有形文化財に指定されました。

構成

聖堂は西を正面とし、吹き放ちのポーチを置きます。これに続く玄関の上には八角形の 鐘塔を乗せています。玄関は鐘塔に登る階段室を兼ねます。玄関に続く正方形の部屋が啓蒙所 と呼ばれる未洗礼者の儀式の時の待機所です。啓蒙所の次が儀式をおこなう聖所。 ここが聖堂の中心で、高い天井からシャンデリアが下がります。聖所の東側の壁面には聖障が 取り付けられています。聖障には中央に天門(または王門)、その左右に南門、北門と呼ばれる 出入り口があります。聖障の背後は至聖所で、聖不朽体(聖遺物)を納めた宝座(祭壇)を中央 に安置します。

聖障は要所に金箔を置いたロココ調の白地の障壁で、聖像を上下3段に配置します。 聖所の南北にある大きな聖像は明治12年の会堂で使われていたもので、ロシアから取り寄せた ものといわれています。

日本のハリストス正教会堂の歴史と特徴

日本のハリストス正教会堂は、玄関から啓蒙所、聖所へと3室を一直線に配置し、玄関の 上には鐘塔をあげる形式となっています。これはロシア工科大学のシュチュールポフ教授の 基本設計で造られたレンガ造のニコライ堂を小型・簡略化し木造に写した仙台聖堂(明治25年 (1892)、戦災で消失)や曲田聖堂(同年、秋田県)のような過渡期の聖堂から、明治36年 (1903)竣工の京都聖堂によって基本形が成立し、明治43年(1910)竣工の大阪聖堂 (戦災で消失)によって完成の域に達したといわれています。

豊橋聖堂を設計・工事管理した河村伊蔵は両聖堂を見学してその長所を折衷したといわれます。 また、実際に施工した地元の大工中神某も京都の聖堂を見に行き、手本にしたといわれます。 京都聖堂と比べると細部がよく似ています。

豊橋聖堂は木造で、外壁は下見板張りに白ペンキ塗り。モスクワなどに建つ聖堂には煉瓦造の ものが多いです。外壁を白ペンキで塗るのは東アジアの木造の聖堂とは違い、日本の特徴の ようです(京都聖堂は青いですが)。聖障以外が外壁同様に白一色に統一されているのも、 きらびやかなロシアの聖堂とは趣が違い、日本の特徴のようです。

河村伊蔵

河村伊蔵は愛知半田市の出身で、東京本部に属していた副輔祭でした。彼はこの聖堂と 同じ時期に白河聖堂(大正2〜4年(1913〜15))、函館聖堂(同2〜5年(1912〜16)) を設計した建築家で、豊橋に頻繁に滞在して計画を協議しており、図面を作成していたことも 知られていますので、豊橋聖堂も彼の設計とみられます。

山下りん  1857〜1939

聖堂の内部には山下りんの「主の昇天」「ハリストスの降誕」などが掲げられています。

山下りんは日本近代黎明期の聖堂画家です。安政4年(1857)に常陸国笠間(現在の茨城県笠間市) に生まれ、明治13年(1880)ニコライの斡旋で単身ロシアに留学し、ペテルスブルグ (当時の首都、現在のレニングラード)の女子修道院に入ってイコンの制作を学びました。 明治15年(1882)帰国後、全国のハリストス正教会堂のイコンを制作しました。 日本初のイコン画家と明治の女性洋画家という2つの側面をもっています。


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