第1に、カタカナ語が増えること自体がよくないとは必ずしもいえない[6]。「カタカナ語の氾濫は 日本語を乱す、あるいは汚す」といった主張は、基本的に価値判断の問題なので、実りある議論は できないだろう。ただし、カタカナ語は、ほとんどの場合、外来語なのだが、日本にもともとなかった 言葉であれば、その原語の発音をまねてカタカナ表示するべきか、翻訳して日本語の新語にすべきなのか、 という選択の問題になる。この点に関して一般論を述べるのは難しい。しかし、多くの場合 カタカナ表示の方が簡単かつ誤解を避けやすいと思われる。もともと日本になかった言葉を カタカナ表示にすることを嫌う人が何をするかといえば、漢字表記するだけだ。漢字は中国から 「輸入」した文化の象徴でるにもかかわらず、なぜアルファベットは駄目だが、そしてなぜ 漢字はよろしいというのは自分でもよくわからない。
第2に、和製英語の氾濫に対して[6]は、もっと真剣に考えるべきである。たとえば、野球で、ボールが 外野のフェンスを超えていないのに、バッターが本塁に帰ってくることを、日本人は``running home run'' というが、これは和製英語で、正しくは、``inside the ballpark home run'' である。 ランニング・ホームランというのはいかにも和製英語的な感じがする。アメリカ人が聞くと、 「ホーム・ランという物(人?)が走る」というように受け取るだろう。このような和製英語を 目にすると、日本人は英語の感覚を理解していないことが分かる。また、日本人は、何故これほど 言葉の使い方に無神経なのか、という疑問がわく。一昔前まで日本で上映される洋画のタイトルは 原題と全く無関係なことが多かった。たとえば、Out of Africa が「愛と悲しみの果てに」といった 具合だった。しかし、最近は、原題をカタカナ表記することが ほとんどという状況に大きく変わった。ところが、カタカナ表示の題名の意味が分かっていないことが かなりあることが分かった。たとえば、2003年1月に封切られた``Bourne Identity'' という映画がある。Bourneは固有名詞(主人公の名前)で、辞書には載っていない。 あるTVの番組で、この映画を見に来た若者に「ボーン・アイデンティティーとはどういう 意味か分かりますか?」という質問をしたところ、「ボーンは骨(bone!)でしょ。 アイデンティティーって何だったけ?えーと ...分かんない」と答えていた。要するに、 意味がどうであれ、そんなことはどうでもいいわけだ。単にカッコよく聞こえればよいということである。
第3に、カタカナ語には、余り議論されていない一つ大きなメリットがある。それは、 日本語の深刻な問題点の一つである同音異義語の氾濫を解決する有効な手段になりうる、という点である。 例えば、日本語の「熱い、厚い」などを口頭で、しかも単語だけ言われてもどの意味を指すか混乱する 時がある。これは日本語に限らず英語などにも言えることだが、中国文化を取り入れつつ、独自の文化を 発展させた結果、異なる意味を持ちながらも、同じような発音をする漢字がうまれたということであろう。 ここでもし、上の「熱い、厚い」を``hot, thick''に翻訳し、カタカナ語「ホット、シィック」と定義 できるならば、言葉の区別をつけることが可能となる。すべての同音異義語をカタカナ語に変換することは 不可能であるが、日常でよく使われる表現で誤解が生みやすいものをカタカナ語にすることによって 会話の円滑化が図れると思う。