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音としての英語

第3に、日本の英語教育は英語を文字列として視覚的に捉えることから始めることが多い[6]。たとえば、 中学校の英語の授業で真っ先に習うのは、アルファベットのつづりと個々の文字の発音である。 これも大きな誤りである。英語はサウンドとして、聴覚的に捉えることから始めるべきである。 何故かといえば、読み書きより聞く・話す方がはるかにやさしいからである。このことを証明するのは簡単だ。 まず、幼い子供は、両親など周囲の人々が話しかけるのを聞いて、それを真似ることによって 少しずつしゃべれるようになる。しかし、読んだり、書いたりするのはずっと後である。 個人差はあるにせよ、5歳くらいになれば、他人の言う事を理解し、自分の意思を発言できるようになる。 しかし、文章を読んだり書いたり出来るようになるのはずっと後である。また、世界には文盲の人は 何億人といるが、彼らは読み書きが出来ないだけで、聞いたり話したりすることには全く不自由していない。

ここでピアノレッスンを例に挙げる。受講者が、「まず楽譜の読み方から始めなくては」 などと考えるだろうか?普通は実際にピアノの鍵盤を弾いて、「このキーを弾くとこういう音がする」 といったことから始めるのではないだろうか。世界的に有名なピアニストの中には、 (眼が不自由ではないのに)全く楽譜が読めない人がけっこういる。つまり、楽譜が読めることは ピアノを弾けるようになるための必要条件でも十分条件でもないわけだ。逆に、譜面をいくら読んでも、 実際にピアノの鍵盤を弾く練習を繰り返さない 限りピアノが弾けるようにならないのは自明の理だろう。


Deguchi Lab. 2015年3月4日