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文法偏重[6]

日本では、文法の勉強が必要以上に強調されている。もちらん、文法を無視していいわけではないが、 問題は文法を法律や数学の定理のような理路整然としたルールのように扱っているのではないか という点である。元々、文法は
文法の成り立ち
ネイティブスピーカーが  \fbox{〜〜という場面} で  \fbox{〇〇という表現} をする。
それらを \fbox{S,V,O,C
...etc} に分解すると  \fbox{△△というパターン} ができる。
という例を大量に集め、分析したものにすぎない。実際文法を勉強すると「何故このような文法が あるのか」という素朴な疑問がしばしば生まれる。そうした疑問に対して、ネイティブスピーカーが 理路整然とした説明ができることはむしろ例外で、多くの場合「そういう慣習になっているとしか いいようがない」という答えが返ってくるのが普通だ。今のアメリカンスクールの創設者である 自分の父はネイティブスピーカーであるが説明できている場面を目撃したことがない。むしろ、 iPadで検索し、検索結果を生徒に見せている場面のほうをより多く目撃している。特に英語の文法は 例外が多すぎて、全部を覚えるのは不可能だろう。これはドイツ語の例だが、名詞を男性名詞と 女性名詞に区別し、対応する冠詞も異なっている。名詞の性別は決まっていることであり、 これと言った理由が無く、男性名詞と女性名詞の区別は実際の性別とは関係がないため、 使用する名詞の性はすべて覚えるしかない。 日本の英語教育では「意訳をするな、直訳せよ、意訳するのは、もっと社会に出てから。 何故なら、意訳すると文法が身に付かないからだ」とやかましくいう傾向がある。しかし、 これは本末転倒である。英語を理解することが目的であり、文法は理解のための手段に過ぎない。

いずれにせよ、ネイティブスピーカーの使っている英語に触れていれば、文法はおのずと身につく。 というより、それ以外に身につける方法はないと思われる。


Deguchi Lab. 2015年3月4日